新しき日本が
本格的に世界の舞台へ踊り出る時が迫ってきました。
明治二十七(一八九四)年五月
朝鮮半島において
内乱が起きます。
『東学党の乱』
(歴史の授業で習ったような気がします。)
日本は軍を派遣します。
当時の
朝鮮政府が
日本に要請したといわれています。
そして
朝鮮政府は
日本軍と
同時に
別の国にも
軍の派遣を要請していました。
『清国』
⇒眠れる獅子といわれていたとか。。。
日本も清国も
この時を
待っていました。
しかし
まもなく
朝鮮政府と反乱軍の間で和睦が結ばれると
乱は終わります。
朝鮮政府は
両国に撤退を要請します。
両国は撤退をしません。
同年八月一日
日本は清国に宣戦布告します。
『日清戦争』
陸奥宗光が後に回想しているように
『朝鮮半島における日本と清国の権力闘争の結果』
と
この戦争を回顧しています。
『朝鮮の実権を握る為の権力闘争』
『朝鮮を日本の防衛線にする為の戦争』
日本にとって
日清戦争とは
どういう意義を持った戦争だったのでしょう?
今までは
単純に
朝鮮半島を手に入れる為の戦争だったと想ってました。
そういう目的もあったとは想いますが・・・
日本を西欧諸国に認めさせるための戦争
陸奥はそう想っていた気がしてなりません。
個人的に
陸奥の行動から想像しますと
そんな気がします。
陸奥は清に対して
『強硬派』だったといわれています。
最近
テレビドラマになった
『坂の上の雲』でも
大杉 漣(おおすぎ れん)さん演じる
陸奥宗光が
伊藤博文や
強硬派の陸軍の川上操六と
画策していた様子が
確か放送されていたと想います。
そんな陸奥の活躍する場は
やはり
『外交の場』でした。
日清戦争において
彼の外交は
神業だったといえると想います。
『イギリスとロシアの中立化』
しかも日本に好意的だったと言われています。
この外交のおかげで
日本は清国のみに集中出来たと想います。
そして
日本は
この戦争に勝利します。
この勝利は世界を驚かせたことでしょう。
戦後の講和会議
陸奥宗光は
伊藤博文と共に
『日本の全権』として出席します。
そこで
日本に大変有利な条件である
『下関条約』
を結びます。
これら一連の外交は
後に
『陸奥外交』
と呼ばれます。
陸奥外交は日清戦争の勝利の一因だったと想います。
一、朝鮮国を独立国と認めさせます。
二、多額の賠償金を清国から手に入れます。
三、清国から日本へ遼東半島等の領土の割譲
世界は
明治日本を無視出来ない存在となったことでしょう。
条約を結んで
すぐに
世界の厳しい洗礼を受けます。
『三国干渉』
ロシア、ドイツ、フランスの三国が
『遼東半島を清国に返せ』と
日本に迫ってきます。
陸奥はいろいろと画策したようでしたが
止むを得ないと決断し
この干渉を受け入れます。
『臥薪嘗胆』
これが後に
『日露戦争』へと発展していく事になるのです。
しかし
その発展の様子を
陸奥の目に映すことはありませんでした。
外交を直接担当した
陸奥の胸中には
どんな想いがあったのだろうか?
相手がロシアと特定出来ていたか解りませんが
『後にもう一度戦争があるだろう』なんて予測していただろうか?
三国干渉の時に
そんな事を想ったかもしれません。
そんな鋭い感覚を持つ彼は
この頃
肺結核を患っていました。
明治三十(一八九七)年八月
その肺結核により此の世を去ります。
享年五十四歳
彼は何を想いながら
天に召されたのだろうか?
海援隊で共に活躍した
坂本龍馬の事を想い出していただろうか?
『幕末の奇跡』と言われた龍馬
彼がいなければ
明治維新はなかったと。。。
そして
陸奥がいなければ
日清戦争の勝利や不平等条約の改正もなかったと。。。
そう想います。
陸奥は
『龍馬さんは俺のやって来た事をどう想うだろうか?』
なんて想ったのでは?
あるいは
最愛の妻
亮子の事を想いながら床に就いていただろうか?
あのような綺麗な奥さんを持てた彼を
心から羨ましく想います。
それとも
日本の将来を想いながら此の世を去ったのだろうか?
陸奥宗光
彼に一目置いたのは
坂本龍馬や伊藤博文だけではありませんでした。
福沢諭吉や西園寺公望も期待していた政治家だったようです。
最後に
陸奥宗光の有名な言葉で締めくくりたいと想います。
『政治はアートなり、サイエンスにあらず』
政治は
心に響く芸術であり
実験のような科学ではない。
私には
そう聴こえます。
そして
今の日本という国は
アートの結果なのか?
サイエンスの結果なのか?
彼に聴いてみたいものです。
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