今まさに
徳川が豊臣から政権を奪取しようとしています。
時代は遡れば
手法は違いますが
北条が源氏から政権を奪取する様子
足利家が北条
鎌倉幕府から政権を奪取した事も共通するものを感じます。
それは
『もともと臣下であった』
まさに『下克上』
『臣下が主君から政権奪取する』
というものでした。
それを調べ上げたら
キリがありませんね。
中国は
三国志の時代
曹家の魏から
司馬家が政権を奪取した事
もっと古くは
晋から
趙・魏・韓(三晋)と独立した国家が誕生した事
周王朝も殷から政権を奪取した政権でした。
本当にキリがないですね。
それは
今の世でも存在する
『政(まつりごと)』の一部だったのだと。
昔は
その政に
直接
命を懸けていたのでしょうね。
特に
戦国時代
その戦国時代に
事実上
ピリオドを打った戦い
『関ヶ原の戦い』
司馬遼太郎氏の小説にも書いてあったと想いますが
『日本が真っ二つになった』
そんな戦いでした。
『上杉討伐』
秀康は
豊臣家の為の行為だと信じていたのでしょうか?
この時
彼は二十六歳
血気盛んな時であります。
『己の力量を魅せつけたい』
父である
徳川家康に
魅せつけたかったかもしれません。
それ故に
表面的には
『豊臣家の為』を奉じて行動する父に従ったのではないでしょうか。
名門・上杉家に対して
自分の活躍を見てもらいたいと想っていたかもしれません。
しかし
上方の異変が届きます。
『石田三成の挙兵』
秀康はどのような想いで聞いていたでしょうか。
『三成と秀康』
二人は親交があり
三成から秀康に名刀が贈られたり
仲が良かったとも言われています。
後世
小説などで
直江兼続や真田昌幸は
『三成の挙兵』を知っていて
共に謀ったなんて書かれたものも読んだ事があります。
流石に
三成が結城秀康に手を廻す事は無かったと想われますが
もし三成が結城秀康と謀っていたら・・・
家康が小早川秀秋に接近したように・・・
『秀康と秀秋』
お互いに
家康の身内と秀吉の身内ではありますが
立場も環境も違う二人でありますから
接近のしやすさも違うでしょう。
そもそも
家康は表面的とはいえ
豊臣家の為に動いています。
父・徳川家康
結城秀康に『上杉家の監視』を命じます。
『この地に残れ』
『この地で伊達、最上と連携して上杉の動きを抑えるのだ』
豊臣家に近いと家康の目に映り
秀康を警戒したでしょうか?
この命を秀康はどのような想いで受け止めたのでしょう?
秀康は渋々
この役目を受け入れたと言われます。
一方
別働隊として
弟の秀忠が大軍を率いて上方に向かいます。
これに対して
秀康は不満に想ったといわれています。
家康は先の事を考えていたのでしょうか?
『秀康に手柄を挙げさせては後々困る』
この時点で
自分の跡継ぎは
秀忠に決まっていたのかもしれません。
あるいは
ただ単に
『上杉を抑える事が出来るのは
武名の高い秀康でなくてはならない』
『自分の名代としては最適である』
そう想ったでしょうか?
結城家や徳川家も近くにあります。
最悪の場合でも
一門の秀康が江戸城に入城したら
『いざ江戸へ』ではありませんが
結城家はじめ関八州から応援も馳せ参じて来る。
そんな考えがあったかどうかは判りませんが。
『徳川家康』
彼の
一つ一つの行動に対して
いろいろなエピソードが出てきます。
それは
つまり
彼の人間としての
奥深さを意味するように想えます。
この時の
秀康に対する命令も
自分はいろいろと考えてしまいます。
そして
自分の知らないエピソードも沢山あるのでしょう。
結局
天下分け目の『関ヶ原の戦い』は一日で終わります。
大河ドラマでも出ていましたが
上杉家は家康の軍勢を追いませんでした。
秀康が監視した上杉家は
秀康ではなく
国境を接する最上や伊達と戦います。
戦らしい戦をしたのだろうか?
結城秀康にとって
『関ヶ原の戦い』は何だったのでしょう?
彼はどのような想いだったのだろう?
ちなみに
この戦いの後
結城十万石から
大幅加増で
越前に六十七万石の領地を与えられました。
また
関ヶ原の戦いで
初陣を飾り功を挙げた
弟の松平忠吉(まつだいらただよし)は
尾張に五十二万石
関ヶ原以前の石高は十万石もなかったそうです。
自分は考えてしまいます。
この六十七万石は
一体
何だったのだろうか?
家康は
関ヶ原の戦いに勝利した事で
『天下は徳川のもの』という暗示を
示したかったのではないか?と。
そして
『お前は徳川家康の跡継ぎではないぞ』
家康の秀康に対する意思表示であったのではないでしょうか。
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