2009年10月12日

鬼武者三代目 結城秀康(第七回)

結城秀康(ゆうきひでやす)

徳川家康の次男として誕生し

その後

豊臣秀吉の養子となり

そして

天正十八年(一五九〇) 

関東の名族

結城家の養子となりました。

『養子』

当時としては珍しくない

     この『養子』という制度


戦国の世を生き抜くためには

必要な制度だったことでしょう。

いや

戦国だけでなく

昭和の世まで

御家を存続する為に必要だったようです。

ちなみに

昭和の大政治家・吉田茂も養子です。


大河ドラマ『天地人』に登場しました

『上杉景虎(かげとら)』

彼は名将・北条氏康(うじやす)の七男として誕生しました。

彼も人質として

武田家、上杉家と赴きました。


武田家と今川家との

『三国同盟』が成立すると

武田家に人質として入り


武田家との同盟が破れると

北条家に戻り

大叔父・北条幻庵(げんあん)の養子となりました。

北条家の一族として生きていく予定だったはずです。

『北条幻庵』

⇒北条家の祖・北条早雲の三男です。

 彼は北条五代に仕え

 享年九十七歳で此の世を去ったと言われています。


しかし

彼の運命も

波乱万丈でした。


その後

北条氏康が上杉謙信と同盟を結ぶと

上杉家に人質に出されます。

そこで

謙信が人質ではなく

養子として

自分の名乗っていた景虎を与えました。

その謙信の厚意には感謝したことでしょう。

しかし

謙信死後の運命は皆様御存知ですよね。



秀吉も

そういう例から学んだのかもしれません。


『人質の心を掴む』


秀康は

『天下の豊臣家に人質』という意識は

あまり無く

養子として

秀吉の許でノビノビ暮らしたように想います。

また

天下の政治を目の当たりにしたのでしょう。

秀康の人生において

豊臣家での生活は貴重なものだったと想います。

石田三成とも仲が良かったという説もあります。

また

関東の名族とはいえ

結城家は

戦国の世においては小大名。

不満を持っていたでしょうか?

ただ

小大名といっても

石高は十万石ですから

十六歳の秀康には

破格といってもいいと想うのですけど

その心情は如何なるものだったのでしょう。


秀康は結城家において

どのような生活をしたのでしょう。

また

どのような統治をしたのでしょう。

徳川家と隣接する地に領地を持つ

結城家

徳川の影響も大きかった事でしょう。

養父の晴朝は隠居していたようですけど

秀康との関係はどんな感じだったのでしょう。


晴朝(はるとも)は御家の為に

  秀吉の養子であり

  家康の実子である

   秀康に結城家を託したのですから

   秀康を大切に想った事でしょう。


  温かく見守っていたのだと想います。


この結城家でも

ノビノビと育てられたのではないでしょうか。

そんな環境において育てられたおかげで

後の豪快磊落な武将になったように感じます。




彼は秀吉の養子になった時に

『羽柴姓』を与えられていました。

更に

『左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)』

を与えられていましたので

『結城少将』と呼ばれていました。


秀吉は

秀康を厚遇したようです。

家康の子ですから

当然

気も使った事でしょう。

後に

秀康は

『実父・家康よりも養父・秀吉に恩義を感じていた』

なんて説もあるようです。


その秀吉が

慶長三年(一五九八)此の世を去ります。

秀康は

この偉大な養父の死をどのように受け止めたのでしょう。








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2009年09月20日

鬼武者三代目 結城秀康(第六回)

戦国時代

関東の覇者として

その武勇を大きく轟かせ

戦国の扉を開いたとも言われる

『北条早雲』

   を祖に持つ

        北条氏
  

鎌倉時代の北条氏と区別する為に

後世において

後北条氏とも言われてます


その北条氏も

秀吉の手により滅ぼされてしまいます。

毛利や上杉

徳川が

秀吉に従ったように

北条も秀吉に従っていたら

また違った豊臣政権になっていたのでしょうね。


果たして

関東に徳川が移封されていたでしょうか?

そんな事も考えてしまいます。


この時

秀康は

『己のやるべき事をやろう』

      と必死だった事でしょう。

その必死な精進が実り

九州において功を挙げたりします。


見事な若武者となり挑んだ


小田原征伐』


秀康にとっては

自分の運命を変えた出来事になりました。


小田原征伐後

 恐らく

   様々な動きがあったのでしょう。

      それは武将達の様々な思惑と共に


そんな武将達の中に

関東の小大名がおりました。

藤原秀郷の末裔で

鎌倉以来の関東を代表する名門一族

室町時代においては

関東の有力大名として

『関東八屋形(かんとうはちやかた)』と称された

                 名門と位置づけられます。


 結城家当主

    『結城晴朝(ゆうきはるとも)』


彼が秀吉に申し出るのです。

秀康を

『養子に頂きたい』


『秀康殿の見事な武者ぶりには感服致しております』

          とでも言ったかどうかは定かではありませんが。


秀吉もこの申し出を

快諾致します。


この『秀康養子の話』は

秀吉、晴朝

二人の

それぞれの思惑と

それぞれの駆引きがあったように想います。


『小田原征伐』の前年


秀吉の子

『鶴松』が誕生します。


それ故に

秀吉にとって

この申し出は願ったり叶ったりだった事でしょう。


『跡継ぎが誕生した』


もしかすると

秀吉が根回しして

結城家の養子になるように工作したのかもしれません。


ただ

晴朝にとっても

この話は是非

決めておきたかった事でしょう。

『結城晴朝』という武将も関東の地で苦労したのでしょう。

北条氏、上杉氏、佐竹氏、葦名氏等の

強敵の中を生き抜いていきました。


したたかな考えを身に付けていったように想います。


晴朝には元々、

朝勝(ともかつ)という跡継ぎがいました。

朝勝は

常陸源氏佐竹氏の血を引く人物で

彼も養子として迎えられました。

晴朝が朝勝を養子にした経緯も

関東の動乱の中で生き抜くための布石だったのでしょう。



しかし

『小田原征伐』以後

晴朝の動きは早かった事でしょう。

朝勝を廃嫡します。

それは

秀康を跡継ぎとして養子に迎えるためだったようです。


『何故か?』


秀吉が

徳川家康を関東に移封します。

それ故に

晴朝は秀康を養子にする事で

領地を接する事になる

実力者・家康とも懇意にしたいと考えたのでしょう。


晴朝にとって

『秀康を養子に貰う事』は

秀吉に恩を売る事にもなり

家康とも昵懇(じっこん)になれる

     という事であったのだと想います。


晴朝が堅物な武将だったら

佐竹氏との義理にこだわり

朝勝を跡継ぎとしていたでしょう。

ただ

二人を養子として

残す事は出来なかったでしょう。


晴朝は生き残りの為に

柔軟な対応をしたのだと想います。


『苦渋の選択』


その選択は

小早川隆景が

秀吉の養子・秀秋を

小早川家の養子に迎えた時と重なる気がします。


また

その選択は

結城家が

関東から天下へと

活躍する舞台を移した瞬間だったのかもしれません。

 今となっては歴史の舞台と言ってもいいでしょうか。


結城家は室町時代に一度滅亡の憂き目にあっています。


『結城合戦(ゆうきがっせん)』

 ⇒結城一族が足利幕府六代将軍の義教に対して起こした反乱

結局

幕府と戦い滅亡します。

その後

再興を許され戦国時代にも存在してました。


後世

滝沢馬琴により著された

『南総里見八犬伝』も

この合戦が物語に影響しているのです。

そんな

『結城合戦』など一族が辿った歴史は

結城晴朝の胸中に

しっかりと刻まれていたのでしょう。




いろいろな思惑や駆引きの中で


  『結城秀康』


     が誕生いたしました。


天正18年(一五九〇)

秀康、十六歳の血気盛んな時でした。



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2009年08月30日

鬼武者三代目 結城秀康(第五回)

天正十二年(一五八四)

『小牧長久手の戦い』が終わった後


徳川家康の次男

『於義丸(おぎまる)』


彼はこの頃

十歳くらいでしょうか?



『養子』という名の『人質』



どのような想いで大坂へ赴いたのでしょう



秀吉は

於義丸を

家康から

預かりました。


『二人の政争の道具


どんな想いを抱いていたのでしょうか?

覚悟は出来ていたのでしょうか?


『覚悟』

幼い於義丸にどのような覚悟が持てたでありましょう。


自分が大坂にどのような立場で赴いたかは認識していたのでしょうか?


確かに

いつの世も

どこの国でも

『人質』という政略はありました。


古代中国においては

『秦の始皇帝

彼の父親も人質として他国で過ごしてました。

日本の戦国時代も例外ではなく

『人質政策』が政略の一つでした。




於義丸少年は壮大な大坂城を

どのような想いで観ていたのでしょうか?


彼は

秀吉の許で武芸の道に励んだことでしょう。


そして

元服も秀吉により執り行なわれました。



『羽柴秀康(はしばひでやす)』


於義丸は『羽柴秀康』と名乗りました。

秀吉の『秀』

家康の『康』


この時

彼は秀吉と家康

『天下人二人』を

父に持った漢(おとこ)として

歴史は彼を表舞台に出しました。



さて

この秀康

初陣を

天正十五年(一五八七)

九州征伐』において飾ります。

彼は豊前や日向の国における戦いにおいて

功を挙げたといわれています。

まだ十代前半の少年です。

更に

天正十八年(一五九〇)

小田原征伐』

天正二十年(一五九二)

『朝鮮出兵』

と参加したと言われています。

前線には出ていないのかもしれませんが

戦の手法を覚えていったと同時に

武将としての器量を磨いていったのです。


それ故に

『小田原征伐』の後に

そんな彼に目を付けた関東の名門武将がいました。

秀康に新たな運命が待ち受けております。

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2009年08月16日

鬼武者三代目 結城秀康(第四回)

戦国時代も終盤に近づくと同時に

徳川家は

日本国の中で無視出来ない存在になっていきます。

かつては

今川義元の代名詞

『海道一の弓取り』

その呼び名に相応しいまでの

力をつけていました。


徳川家康


そんな実力を付けた

家康の前に


ある武将が

家康の前に立ちはだかったのでした。


そのさる武将

いや

ある武将は


恐らく

『信長の全てを継承したい男』であった事でしょう


ある武将は

羽柴秀吉


秀吉は

信長の次男である信雄(のぶかつ)と揉めます。

そして

二人の間で戦に発展すると

信雄は

家康に援軍として参陣を願います。



ここに

『小牧長久手の戦い』

        が起こります。


秀吉と家康の

最初にして

最後の

直接

戦った

戦(いくさ)でありました。


秀吉の軍勢は約十万

家康と信雄の軍勢は約二万

圧倒的に秀吉軍が有利です。


織田家譜代の池田恒興(いけだつねおき)や

森蘭丸(もりらんまる)の兄・森長可(もりながよし)などが

秀吉の味方に付いていました。

しかし

徳川家に比べたら

烏合の衆だったかもしれません。




秀吉は

織田家からの

先輩である恒興に遠慮があったかもしれません。


それ故

恒興達の戦略に乗りました。

恐らく

恒興達は功を焦ったのでしょうか?


家康に戦略を見破られ


その結果

戦死してしまいました。


秀吉は軍勢を

なんとか立て直しました。


その後

暫くは膠着状態となり

休戦

そして

講和となりました。


『秀吉は家康の戦闘力に

      家康は秀吉の経済力に』

お互いが参ったようだと聞きます。


お互いが

お互いの為に

講和を判断したのでしょう。


家康は

講和の条件として

秀吉に人質を差し出しました。


その人質の名は


     『於義丸(おぎまる)』



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2009年07月20日

鬼武者三代目 結城秀康(第三回)

家康の凄かったところは

自分の後継者をしっかりと

しかも

的確に選んだ事だったと想います。

数多くいる候補の中で

その時代に合致した後継者を選んだと言えるでしょう。

その選択が間違ってなかった事は

二五〇年という時の流れが証明しました。


それにしても

徳川家康にとって

『信康の死』は

痛恨の出来事であったでしょう。




三国志の英雄

魏の曹操(そうそう)は

優秀な息子の曹沖(そうちゅう)が若くして他界した時

曹操の後継者候補

曹丕(そうひ)に


『私にとっては不幸であるが、お前にとっては幸運だ』

                     と言ったそうです。

ちなみに

曹丕は後に曹操の後継者となります。

そして

彼が後漢王朝より政権を簒奪し

魏王朝を開きます。


家康には

息子達に

そういう気持ちは無かったとは想いますが・・・。

自分の後継者を誰にするかは迷った事と想います。

更に

『後継者として育てないといけない』

そんな気持ちだったかもしれません。


そんな信康の死から数年後

『本能寺の変』で信長が斃れます。


大変な事件であると同時に

家康にとっては皮肉な事件だったでしょう。

『信長の為に信康を殺した』

時のイタズラを恨めしく想った事でしょう。

しかし

家康に

そんな感慨を抱く時間は許されませんでした。

信長亡き後

家康の決断一つで

徳川家の存在価値も変わってきます。

『信長の同盟者』

家康はこの時所有している

『三河、遠江、駿河』


この機に

 『甲斐、信濃』

     に進出します。


武田の遺臣を

徳川家に組み込む等

勢力を広げ

万全な基盤を整えようと動きます。


こんな時に

信康がいたら、どのような展開になっていたでしょう。

『信康がいたら・・・』

なんて想ったのは家康だけではなかったかもしれません。


大きくなっていく徳川家

その『大きくなっていく徳川』を

安心して任せる事が出来たかもしれません。

しかし

そんな事をいつまで考えていても仕方がありません。

家康は

徳川家と従う家臣団、徳川の許に暮らす領民達

彼らの事を考えなければならないのです。

先の事を考えると

やはり後継者を育てないといけません。


当然

その徳川家康の後継者として

次男の於義丸(おぎまる)が候補として挙げられます。

家康の後継者として生きていく事になるのか?

                 

そんな徳川家の内情など構わずに


『大きな敵が誕生しました』

家康はじめ徳川家の前に

その大きな敵が現れます。

皆様、御存知ですよね。


天正十二年(一五八四)

その大きな敵と激突します。

於義丸

十歳の時の出来事でありました。


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2009年07月11日

鬼武者三代目 結城秀康(第二回)

結城秀康(ゆうきひでやす)の母は

父・家康の正妻である築山殿(つきやまどの)の

奥女中であったといわれています。

これが事実ならば

今川家の名門出身である正妻の築山殿の

心中が想像出来ます。


当然、家康も想像出来たようです。

重臣の『鬼作左(おにさくざ)』こと本田重次に

秀康の母を預けました。

重次に匿われながら

何とか無事に

後の結城秀康こと

於義丸(おぎまる)は誕生したのでした。



ここでお詫びいたします。

私は間違えました。

第一回において

『浜松城において誕生した』

    と書いたのですが訂正します。


『浜松城下』というのが正確なようです。

つまり家康の子でありながら

城中で誕生する事は出来なかったのです。

彼くらいではないのでしょうか?

家康の子で

『匿われながら誕生した子』



兄・信康は

弟・於義丸の存在を知っていたのでしょう。

そして

彼も父同様

母のプライドの高い性格を承知していたと想います。

信康は

なかなか出来た人物だったらしく

人望も厚かったそうです。

信康は母に対しても

意見をしっかりと言えた若武者だったように想像できます。


何かと於義丸母子をかばったかもしれませんね。


於義丸が

三歳になった頃に

この優しい兄・信康の取り成しにより

父・家康との対面を果たします。



信康、信康と私は言いますが

  『松平信康』

     又は

      『徳川信康』



『徳川信康』を名乗る事は無かったようです。



『徳川』を名乗る前に

彼は此の世の人ではありませんでした。


その発端は

彼の妻にあったと言われています。

彼の妻は家康の同盟者・織田信長の娘である徳姫(とくひめ)

この徳姫と母・築山殿の不仲が不幸の始まりでした。


そして結果的に

『武田勝頼との内通』疑惑を信長に持たれてしまいました。


信長は非情でした。

家康に対して

『信康を切腹させよ!』と命じます。



天正七年(一五七九)兄・信康は此の世を去ります。

享年二十一歳。


『若すぎる無念の死』


家康は

悲しくて悔しかったことでしょう。


信長は

この優秀な若者の才能を怖れていたと

想わせるような出来事のようにも感じます。


信康が生きていたら

徳川は

どのようになったでしょうね。


於義丸五歳の時の出来事であり

『本能寺の変』の三年前の事でした。

秀康は成長した頃に

信康の事を当然、聞いたことでしょう。

信康に対する想いは

どのようなものだったのだろう?

そして

この出来事は

彼の波乱の人生の序章だったのかもしれません。



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2009年07月05日

鬼武者三代目 結城秀康(第一回)

関ヶ原の戦いの前に

上杉討伐に赴いた徳川家康の

東征中に

『石田三成挙兵』

日本の運命を変える情報が飛び込んできました。

小山評定において

家康は上杉征伐に従って来た武将達に決断を促し

結局

大部分の将達が

家康と共に

『石田三成討伐』に向かいました。

その時

上杉景勝や直江兼続の備えとして

関東に残した総大将が

『結城秀康』その人でした。

この時の彼の心境はどのようなものだったのでしょう。



『結城秀康』

最近では

明智左馬助秀満(さまのすけひでみつ)

柳生十兵衛三厳(じゅうべえみつよし)

の次に

大人気のゲーム『鬼武者』の主人公として登場したのが

彼、結城秀康でした。

なかなか面白いゲームで自分は大好きです。


秀康は浜松城で

徳川家康の次男として生まれました。

幼名を於義丸(おぎまる)



一説によると

彼は父・家康に嫌われていたと言われています。

『自分の子ではないのではないか?』と

出生まで疑っていたそうです。

何故??

家康は於義丸を嫌ったのでしょうか?

三歳になるまで対面しなかったという説もあります。


それを不憫に想ったのが

兄の信康でありました。

彼の取り成しにより対面が実現したと言われています。

信康は武将としても優れていると共に

心の優しい情のある人間だったのでしょう。

そんな兄・信康に悲しい運命が待ち受けています。



結城秀康 (学研M文庫)

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2009年06月09日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(最終回)

『関ヶ原の戦い』という日本史上において

重要なイベントは終わりました。

この戦により

『群雄割拠の戦国時代』は

事実上、終焉を迎えたと言えるでしょう。


関ヶ原において大軍勢における大合戦が展開されている時に


奥州の地において

上杉は伊達、最上といった勢力と戦っていました。

この奥州の合戦において

勝者は誰だったのでしょうか?


『関ヶ原の戦い』のきっかけを創った

上杉は残念ながら勝者にはなれませんでした。

しかし

直江兼続の戦いは

ここからだったのかもしれません。



信州・上田

この地においても合戦が起きてました。

『真田昌幸』

『表裏比興(ひょうりひきょう)の男』といわれた

軍略の天才はどのような目的で戦に及んだのでしょうか?


  天下を狙っていたのでしょうか?


昌幸の長男・真田信之は徳川方

昌幸と次男・真田信繁(のぶしげ)は石田方

というよりも西軍に付きました。


『真田信之』

彼は徳川家康の養女であり本多忠勝の娘を妻に迎えており

徳川にはゆかりのある人物だったのです。

彼の存在を

池波正太郎氏の

『真田太平記』や『獅子』という作品において知りました。

大変高い評価であり

作品中の幸村は

『天下の器』と評していたと想います。

そして

大変我慢強い人だったという印象を持ちました。

そんな彼は九十歳過ぎまで生きる事になります。


『真田信繁』

  ⇒後に『日本一の兵』と謳われた真田幸村であります。

彼は太閤・秀吉の人質として大坂に出仕していた事もあります。

また秀吉の家臣・大谷吉継の娘を娶っておりました。

どちらかというと豊臣に近かったのでしょうか?

では

父親の昌幸はどのような考えを持っていたのでしょうか?

彼は関ヶ原の戦い以前に一度、徳川と戦っています。

徳川を嫌っていたかもしれません。

だからと言って

私怨により動き

徳川と戦う決断をしたかどうか?

信州上田の小領主である昌幸の狙いは何だったのでしょう?


先程の『真田太平記』に登場する彼は大変な野心家であり


関ヶ原の戦いが一日で終わった事を知ると

『やはり石田治部では駄目だったか』と叫んでいた記憶があります。

この『表裏比興の男』の思惑は一体何だったのでしょう。


真田家は戦後、長男の信之が後を継ぎ

昌幸と幸村は紀州九度山に流罪となります。

昌幸の息子二人は

歴史に名を残すと共に

家名を今の世に残すのであります。



そして

九州の地においても大きな動きがありました。



『黒田如水』



秀吉だけでなく

恐らく家康も警戒したであろう

稀代の智将が暴れておりました。



彼が関ヶ原の地にいたら

戦はどうなっていたのでしょう。


そんな彼は九州の地でやりたい放題だったように想います。

と言っても

彼が攻撃したのは『西軍陣営』の軍勢や城でした。


徳川家康の『東軍』として動いていたようです。

如水はどちらが勝つか読みきっていたのでしょう。



そんな彼は九州を平らげた後に

中央へ進出するつもりだったという説を聞いたことがあります。

天下を獲るつもりだったのでしょうか?



如水が暴れた九州には

もう一人

天下にとって重要な人物がいました。


『加藤清正』


『関ヶ原の戦い』に参加しなかった彼は九州に留まっていました。

彼は同僚の猛将・福島正則と違い

築城術に長けたところなど

知的なイメージも感じる勇将です。

何故、関ヶ原の地にいなかったのでしょうか。



三成を嫌っていたということでしたが

それ以上に

家康を警戒していた事でしょう。

『九州にいた』という事は

清正なりの意思表示だったのでしょう。


彼が大坂城にいたら

また違った展開になったことでしょう。



黒田如水は加藤清正と協力して西軍の城を次々と落としていきました。

如水と清正は仲が良かったのでしょうか?

お互いに秀吉を支えた二人です。

まさか清正が如水に利用されたとは想いませんが。


しかし

さすがの如水も

戦いが一日で終わるとは想っていなかったと想います。


『これでお終い。』


黒田如水の戦いが終わった瞬間だったのです。


息子の黒田長政が東軍の一員として

関ヶ原で活躍しました。


家康は

その褒美に

黒田家に五十二万石を与えました。


家康の側近が

『如水の活躍への褒美は?』

家康は

『・・・・・・・』

     だったそうです。


その沈黙

如水の心の中を見抜いていたのでしょう。


『関ヶ原の戦い』が終わり

如水の他の野心家達も

矛を収めるしかなかったのです。



直江兼続は家康の重臣・本多正信と交渉するなど

八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をし上杉家存続に成功します。

上杉家は江戸時代から幕末維新を生き抜き

今も残っています。


豊臣秀吉が最も天下を任せたくなかった漢

それでいて

本心より怖れていた漢

徳川家康が天下を握りました。



そして

秀吉が最も天下を譲りたかった

息子の豊臣秀頼に家康の孫・千姫を嫁がせたこと

それは秀吉による

『精一杯の抵抗』だったように想えます。



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2009年05月31日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第六回)

いつの世も戦争は沢山の人々の人生を変えました。

『関ヶ原の戦い』


この戦もその一つだったことでしょう。


『関ヶ原の戦い』がなかったら

どんな世の中になっていたのでしょう?


そんな歴史上に沢山存在する戦いの中で

日本の進むべき道を変えた戦いの一つだったのでしょう。

それが

『関ヶ原の戦い』


その戦いの

きっかけを創ったのは

直江兼続であり



石田三成の決断により

『関ヶ原の戦い』は始まりました。


そして

その用意された舞台で見事に演じきったのが

徳川家康だったのかもしれません。


下野国小山にいた

家康は一転して

上方に向かおうとします。


これを絶好の機会と観たのが

直江兼続でした。

『追撃しましょう』

と主君・上杉景勝に進言します。

しかし

この時、景勝は動きませんでした。



三成と兼続の

『密約』があったという説もあります。

もし密約があったとしたら景勝も承知していたと想います。


それでも

背後に

出羽の強者・最上義光(もがみよしあき)



奥州の覇者・伊達政宗が上杉を牽制していました。

更に家康の去った地には

家康の次男である

結城秀康(ゆうきひでやす)が上杉に備えていました。


結城秀康

彼は家康の次男であり

秀吉の養子として成長しました。

実質的には人質でしょう。

秀康の『秀』は秀吉から貰ったものです。

しかし

秀吉に鶴松が誕生すると

秀康は関東の名家・結城家を継ぐ事になりました。

秀吉が秀康を体よく

追い出したように想えます。

家康の子である彼に天下を任せたいとは

間違っても想わなかったのでしょうね。


『結城秀康』

   彼の人生も波乱の人生だったと聞いています。


最近では

鬼武者』というゲームの主人公にも取り上げられています。

漫画『花の慶次』にも登場しております。


さて

話を戻しますと


北と南から挟まれていた上杉家


それ故に

景勝は動けないと想ったのでしょうか?

兼続の考えはどうだったのでしょう?


以前、何かの書物で読んだ事のある話ですが

徳川を追撃した時に

領地の会津を取られたら

『そのまま江戸に攻め込み居城としたらいい』

と兼続が言ったとか、言わないとか?


今想うと

上杉が江戸を取るのは無理がある気もします。

逆に

政宗あたりが会津を取るとなると話は別です。

以前、短い間でしたが統治していたわけですし。


恐らく

兼続も自重せざる負えないと想ったのではないでしょうか。

三成との約束や夢を追うよりも

『現実にある状況』に対して動かざる負えなかったのでしょう。

そして

上杉家は最上領を攻撃します。

 上杉と最上

  あまり仲が良くなかったようです。

兼続は大軍を率いて

『長谷堂城の戦い』など攻撃を仕掛けるが

攻略出来ずにいました。


そんな時に

一報が届いたのです。


『関ヶ原にて徳川家康大勝利の報』

           『一日で終わりました』


兼続や景勝、上杉家に

その報告が届いたのは

関ヶ原の戦いが終わって

二週間後の事でありました。

その時

兼続は

『盟友・石田三成の死』も知ったのでしょう。





秀吉と家康―関ヶ原と戦国武将の興亡

秀吉と家康―関ヶ原と戦国武将の興亡





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posted by よしの at 21:06| 千葉 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第五回)




豊臣秀吉が一番脅威に想っていた人間は

やはり徳川家康だったのでしょう。


黒田如水を警戒したといわれていますが

その警戒度は

家康に対するものとは比較にならなかったと想います。

その警戒した如水や家康とは対照的に

秀吉は

実直な上杉景勝や

景勝の陪臣で才能豊かな直江兼続を信頼していた上に



好きだったのでしょう。



自分は


小早川隆景が賢の人

黒田如水を智の人

と評しました。


直江兼続は果たして

どう評価すべきだろうか?

正直悩むところです。


そして

秀吉が

身内の中で

一番信頼したのが

やはり

石田三成だったのでしょう。


秀吉は三成に天下を任せてみたいと

本当は想っていたのではないでしょうか。

ただ

『未熟だ!!』

   とも想っていたでしょう。


『石田三成』


自分の中では

三成は

何故か?

三国志の馬謖(ばしょく)と重なります。

二人は政務は一流で

才能も豊かでありました。

しかし軍事に関する面では経験が乏しかった。

それが

二人の運命を

悲劇的なものにしてしまったように感じます。


三成が戦いを挑む

徳川家康は戦の経験が豊富な武将達でした。

戦国最強を誇った

武田信玄とも戦った経験があります。

そして

秀吉とも戦いました。

そんな

徳川家康という巨象を相手にする

三成と懇意にしていたといわれるのが

直江兼続その人でした。



秀吉の死後

三成は居城の佐和山城に蟄居します。


家康は

自分の意に沿わず

会津の本拠にて

対抗する上杉家に対して

『上杉討伐』を号令します。


会津に向けて

軍勢を率いて進軍します。

やがて

家康の軍勢は

下野国小山に落ち着きます。


迎え撃つこととなった

上杉家は神指(こうざし)原に

新しい城を築城中でしたが

これを中止します。

そして

白河の革篭(かわご)原に兵を配置します。

その数五万五千という説もありますが

如何なものでしょう。

もし、その兵力が本当ならば

まさに上杉家の命運を懸けたのでしょう。

お金も使った事でしょう。


『いつでも来い!!』

この時の上杉勢は

そんな気概を持っていたことでしょう。

負ける気がしなかったかもしれません。


そんな時です。



   『石田三成挙兵』

        『徳川家康討伐』



三成の居城である近江・佐和山城にて兵を挙げます。

石田三成という

忠の人の決断

この国の命運を変えた決断でした。



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posted by よしの at 23:44| 千葉 雨| Comment(2) | TrackBack(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする