2009年07月05日

鬼武者三代目 結城秀康(第一回)

関ヶ原の戦いの前に

上杉討伐に赴いた徳川家康の

東征中に

『石田三成挙兵』

日本の運命を変える情報が飛び込んできました。

小山評定において

家康は上杉征伐に従って来た武将達に決断を促し

結局

大部分の将達が

家康と共に

『石田三成討伐』に向かいました。

その時

上杉景勝や直江兼続の備えとして

関東に残した総大将が

『結城秀康』その人でした。

この時の彼の心境はどのようなものだったのでしょう。



『結城秀康』

最近では

明智左馬助秀満(さまのすけひでみつ)

柳生十兵衛三厳(じゅうべえみつよし)

の次に

大人気のゲーム『鬼武者』の主人公として登場したのが

彼、結城秀康でした。

なかなか面白いゲームで自分は大好きです。


秀康は浜松城で

徳川家康の次男として生まれました。

幼名を於義丸(おぎまる)



一説によると

彼は父・家康に嫌われていたと言われています。

『自分の子ではないのではないか?』と

出生まで疑っていたそうです。

何故??

家康は於義丸を嫌ったのでしょうか?

三歳になるまで対面しなかったという説もあります。


それを不憫に想ったのが

兄の信康でありました。

彼の取り成しにより対面が実現したと言われています。

信康は武将としても優れていると共に

心の優しい情のある人間だったのでしょう。

そんな兄・信康に悲しい運命が待ち受けています。



結城秀康 (学研M文庫)

結城秀康 (学研M文庫)






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2009年06月09日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(最終回)

『関ヶ原の戦い』という日本史上において

重要なイベントは終わりました。

この戦により

『群雄割拠の戦国時代』は

事実上、終焉を迎えたと言えるでしょう。


関ヶ原において大軍勢における大合戦が展開されている時に


奥州の地において

上杉は伊達、最上といった勢力と戦っていました。

この奥州の合戦において

勝者は誰だったのでしょうか?


『関ヶ原の戦い』のきっかけを創った

上杉は残念ながら勝者にはなれませんでした。

しかし

直江兼続の戦いは

ここからだったのかもしれません。



信州・上田

この地においても合戦が起きてました。

『真田昌幸』

『表裏比興(ひょうりひきょう)の男』といわれた

軍略の天才はどのような目的で戦に及んだのでしょうか?


  天下を狙っていたのでしょうか?


昌幸の長男・真田信之は徳川方

昌幸と次男・真田信繁(のぶしげ)は石田方

というよりも西軍に付きました。


『真田信之』

彼は徳川家康の養女であり本多忠勝の娘を妻に迎えており

徳川にはゆかりのある人物だったのです。

彼の存在を

池波正太郎氏の

『真田太平記』や『獅子』という作品において知りました。

大変高い評価であり

作品中の幸村は

『天下の器』と評していたと想います。

そして

大変我慢強い人だったという印象を持ちました。

そんな彼は九十歳過ぎまで生きる事になります。


『真田信繁』

  ⇒後に『日本一の兵』と謳われた真田幸村であります。

彼は太閤・秀吉の人質として大坂に出仕していた事もあります。

また秀吉の家臣・大谷吉継の娘を娶っておりました。

どちらかというと豊臣に近かったのでしょうか?

では

父親の昌幸はどのような考えを持っていたのでしょうか?

彼は関ヶ原の戦い以前に一度、徳川と戦っています。

徳川を嫌っていたかもしれません。

だからと言って

私怨により動き

徳川と戦う決断をしたかどうか?

信州上田の小領主である昌幸の狙いは何だったのでしょう?


先程の『真田太平記』に登場する彼は大変な野心家であり


関ヶ原の戦いが一日で終わった事を知ると

『やはり石田治部では駄目だったか』と叫んでいた記憶があります。

この『表裏比興の男』の思惑は一体何だったのでしょう。


真田家は戦後、長男の信之が後を継ぎ

昌幸と幸村は紀州九度山に流罪となります。

昌幸の息子二人は

歴史に名を残すと共に

家名を今の世に残すのであります。



そして

九州の地においても大きな動きがありました。



『黒田如水』



秀吉だけでなく

恐らく家康も警戒したであろう

稀代の智将が暴れておりました。



彼が関ヶ原の地にいたら

戦はどうなっていたのでしょう。


そんな彼は九州の地でやりたい放題だったように想います。

と言っても

彼が攻撃したのは『西軍陣営』の軍勢や城でした。


徳川家康の『東軍』として動いていたようです。

如水はどちらが勝つか読みきっていたのでしょう。



そんな彼は九州を平らげた後に

中央へ進出するつもりだったという説を聞いたことがあります。

天下を獲るつもりだったのでしょうか?



如水が暴れた九州には

もう一人

天下にとって重要な人物がいました。


『加藤清正』


『関ヶ原の戦い』に参加しなかった彼は九州に留まっていました。

彼は同僚の猛将・福島正則と違い

築城術に長けたところなど

知的なイメージも感じる勇将です。

何故、関ヶ原の地にいなかったのでしょうか。



三成を嫌っていたということでしたが

それ以上に

家康を警戒していた事でしょう。

『九州にいた』という事は

清正なりの意思表示だったのでしょう。


彼が大坂城にいたら

また違った展開になったことでしょう。



黒田如水は加藤清正と協力して西軍の城を次々と落としていきました。

如水と清正は仲が良かったのでしょうか?

お互いに秀吉を支えた二人です。

まさか清正が如水に利用されたとは想いませんが。


しかし

さすがの如水も

戦いが一日で終わるとは想っていなかったと想います。


『これでお終い。』


黒田如水の戦いが終わった瞬間だったのです。


息子の黒田長政が東軍の一員として

関ヶ原で活躍しました。


家康は

その褒美に

黒田家に五十二万石を与えました。


家康の側近が

『如水の活躍への褒美は?』

家康は

『・・・・・・・』

     だったそうです。


その沈黙

如水の心の中を見抜いていたのでしょう。


『関ヶ原の戦い』が終わり

如水の他の野心家達も

矛を収めるしかなかったのです。



直江兼続は家康の重臣・本多正信と交渉するなど

八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をし上杉家存続に成功します。

上杉家は江戸時代から幕末維新を生き抜き

今も残っています。


豊臣秀吉が最も天下を任せたくなかった漢

それでいて

本心より怖れていた漢

徳川家康が天下を握りました。



そして

秀吉が最も天下を譲りたかった

息子の豊臣秀頼に家康の孫・千姫を嫁がせたこと

それは秀吉による

『精一杯の抵抗』だったように想えます。



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2009年05月31日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第六回)

いつの世も戦争は沢山の人々の人生を変えました。

『関ヶ原の戦い』


この戦もその一つだったことでしょう。


『関ヶ原の戦い』がなかったら

どんな世の中になっていたのでしょう?


そんな歴史上に沢山存在する戦いの中で

日本の進むべき道を変えた戦いの一つだったのでしょう。

それが

『関ヶ原の戦い』


その戦いの

きっかけを創ったのは

直江兼続であり



石田三成の決断により

『関ヶ原の戦い』は始まりました。


そして

その用意された舞台で見事に演じきったのが

徳川家康だったのかもしれません。


下野国小山にいた

家康は一転して

上方に向かおうとします。


これを絶好の機会と観たのが

直江兼続でした。

『追撃しましょう』

と主君・上杉景勝に進言します。

しかし

この時、景勝は動きませんでした。



三成と兼続の

『密約』があったという説もあります。

もし密約があったとしたら景勝も承知していたと想います。


それでも

背後に

出羽の強者・最上義光(もがみよしあき)



奥州の覇者・伊達政宗が上杉を牽制していました。

更に家康の去った地には

家康の次男である

結城秀康(ゆうきひでやす)が上杉に備えていました。


結城秀康

彼は家康の次男であり

秀吉の養子として成長しました。

実質的には人質でしょう。

秀康の『秀』は秀吉から貰ったものです。

しかし

秀吉に鶴松が誕生すると

秀康は関東の名家・結城家を継ぐ事になりました。

秀吉が秀康を体よく

追い出したように想えます。

家康の子である彼に天下を任せたいとは

間違っても想わなかったのでしょうね。


『結城秀康』

   彼の人生も波乱の人生だったと聞いています。


最近では

鬼武者』というゲームの主人公にも取り上げられています。

漫画『花の慶次』にも登場しております。


さて

話を戻しますと


北と南から挟まれていた上杉家


それ故に

景勝は動けないと想ったのでしょうか?

兼続の考えはどうだったのでしょう?


以前、何かの書物で読んだ事のある話ですが

徳川を追撃した時に

領地の会津を取られたら

『そのまま江戸に攻め込み居城としたらいい』

と兼続が言ったとか、言わないとか?


今想うと

上杉が江戸を取るのは無理がある気もします。

逆に

政宗あたりが会津を取るとなると話は別です。

以前、短い間でしたが統治していたわけですし。


恐らく

兼続も自重せざる負えないと想ったのではないでしょうか。

三成との約束や夢を追うよりも

『現実にある状況』に対して動かざる負えなかったのでしょう。

そして

上杉家は最上領を攻撃します。

 上杉と最上

  あまり仲が良くなかったようです。

兼続は大軍を率いて

『長谷堂城の戦い』など攻撃を仕掛けるが

攻略出来ずにいました。


そんな時に

一報が届いたのです。


『関ヶ原にて徳川家康大勝利の報』

           『一日で終わりました』


兼続や景勝、上杉家に

その報告が届いたのは

関ヶ原の戦いが終わって

二週間後の事でありました。

その時

兼続は

『盟友・石田三成の死』も知ったのでしょう。





秀吉と家康―関ヶ原と戦国武将の興亡

秀吉と家康―関ヶ原と戦国武将の興亡





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2009年05月08日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第五回)




豊臣秀吉が一番脅威に想っていた人間は

やはり徳川家康だったのでしょう。


黒田如水を警戒したといわれていますが

その警戒度は

家康に対するものとは比較にならなかったと想います。

その警戒した如水や家康とは対照的に

秀吉は

実直な上杉景勝や

景勝の陪臣で才能豊かな直江兼続を信頼していた上に



好きだったのでしょう。



自分は


小早川隆景が賢の人

黒田如水を智の人

と評しました。


直江兼続は果たして

どう評価すべきだろうか?

正直悩むところです。


そして

秀吉が

身内の中で

一番信頼したのが

やはり

石田三成だったのでしょう。


秀吉は三成に天下を任せてみたいと

本当は想っていたのではないでしょうか。

ただ

『未熟だ!!』

   とも想っていたでしょう。


『石田三成』


自分の中では

三成は

何故か?

三国志の馬謖(ばしょく)と重なります。

二人は政務は一流で

才能も豊かでありました。

しかし軍事に関する面では経験が乏しかった。

それが

二人の運命を

悲劇的なものにしてしまったように感じます。


三成が戦いを挑む

徳川家康は戦の経験が豊富な武将達でした。

戦国最強を誇った

武田信玄とも戦った経験があります。

そして

秀吉とも戦いました。

そんな

徳川家康という巨象を相手にする

三成と懇意にしていたといわれるのが

直江兼続その人でした。



秀吉の死後

三成は居城の佐和山城に蟄居します。


家康は

自分の意に沿わず

会津の本拠にて

対抗する上杉家に対して

『上杉討伐』を号令します。


会津に向けて

軍勢を率いて進軍します。

やがて

家康の軍勢は

下野国小山に落ち着きます。


迎え撃つこととなった

上杉家は神指(こうざし)原に

新しい城を築城中でしたが

これを中止します。

そして

白河の革篭(かわご)原に兵を配置します。

その数五万五千という説もありますが

如何なものでしょう。

もし、その兵力が本当ならば

まさに上杉家の命運を懸けたのでしょう。

お金も使った事でしょう。


『いつでも来い!!』

この時の上杉勢は

そんな気概を持っていたことでしょう。

負ける気がしなかったかもしれません。


そんな時です。



   『石田三成挙兵』

        『徳川家康討伐』



三成の居城である近江・佐和山城にて兵を挙げます。

石田三成という

忠の人の決断

この国の命運を変えた決断でした。



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2009年04月19日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第四回)




十年位前に

私は直江兼続公が眠る

米沢市の林泉寺を訪れた事があります。

その時

私とは別に一組のカップルが訪れてまして

一緒に

住職の奥様に話を聞いたのでした。

彼らは・・・と言っても

主に興味を持っていたのが彼氏でありまして

彼女はもっぱら付き添いで

仕方なく来たという感じでした。

彼氏は

兼続よりも

『傾奇者・前田慶次』に興味を持ち

訪れたという事でした。

隆慶一郎氏の

『一夢庵風流記』や『花の慶次』に影響を受けたとの事でした。

慶次の墓か記念碑などがあったかどうかは覚えてません。


『今、二人はどうなっているのだろう?』


なんてことは

どうでもよく(笑)


この豪傑・前田慶次も兼続に魅了されたと言われています。

確かに、小説漫画の影響もあります。


慶次が兼続に

『心底惚れた!!』

などと騒いだかどうかは解りませんが

兼続の与力として知遇を受けているようです。


私は兼続の菩提寺であることを知っていたので

兼続夫妻の墓やいろんな話を聞けたのは

嬉しかった記憶があります。


当時

『The Bigman(ザ・ビッグマン)』や

『歴史Eye』という月刊誌がありました。

その雑誌の記事の中で

兼続の特集を読み

彼の存在を知ったのでした。

そして

その彼が

戦国史上最大ともいえる

大事件のきっかけを創るのでありました。


それは上杉家の為だったのでしょうか?


亡き太閤秀吉の恩に報いたのでしょうか?


石田三成との友情に義理立てしたのでしょうか?


あるいは

『己の可能性を試してみたい。』

そんな気持ちがあったのでしょうか?



徳川家康が上杉景勝に上洛を促します。

上杉家の

『会津での活動に対する弁明をしろ』

という感じでしょうか。


『上杉家の会津での活動』

これを家康に報告したのが

越後の領主である堀家でありました。

『堀直政』

彼は秀吉にも一目置かれた武将であり

『天下の仕置きが出来る者』として

小早川隆景、直江兼続と共に評価した一人でありました。


彼は織田信長の許で活躍した

名将・堀秀政の家老でありました。


『堀秀政』

⇒彼は何をやっても見事にやり遂げる事から

『名人』という異名を付けられたほどの人物でした。


直政ではなく秀政を秀吉は評価したのではないかとも想えます。


その秀政の話は後日と致しまして

信長無き後

彼は秀吉の家臣となり活躍しますが

小田原征伐で急死します。

享年三十八歳


その後を継いだのが

息子の秀治でした。


直政は

その秀治を支えていきました。

この堀家が

秀吉の命により

国替えをされました。


それが越後だったのです。


『上杉家の越後』


この時

スムーズに事は進みません。

上杉家との確執が生じます。


『上杉家は年貢米を一年分持って行きました〜』


暗黙の了解として

国替えの時は

半年分を置いていくという常識があったようです。

それを上杉家

いや

直江兼続は無視したのでした。


その為、堀家には年貢米を徴収出来なくて

大変苦労したといいます。


そんな恨みが残っていました。


それ故

『ここぞ!!』とばかりに

家康にチクッたのでしょう。


家康は再三

上杉家に上洛を促します。

しかし

景勝と兼続は応じません。


そこで

『直江状』

 ⇒簡単に言うと『来るなら来い!!』という内容の書状でしょう。


徳川家康に書状を突きつけます。


家康は

『こんな無礼な書状初めてだ!!』

           と怒り心頭です。


兼続の挑発に乗ります。


ただ

家康はタヌキであります。

わざと挑発に乗ったのかもしれません。


間もなく

徳川家康は

『上杉討伐』を号令します。


 秀吉にとって


  天下を任せたいと想った漢

        と


     天下を渡したくない漢

          が


        天下の舞台で


          歴史を演じていくのです。



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2009年04月07日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第三回)




戦国時代という乱世

この時代は

優秀なリーダーが同時期に沢山輩出した時期でありました。

確かに

いつの世も魅力的な人材は登場するのでしょう。

ただ

戦国時代のような乱世は

魅力的な人間のエネルギーが爆発するのかもしれません。

そして

乱世を経験した国は

魅力的でバイタリティーあふれた人間が

出現するのかもしれません。

そうすると

日本の隣の中国は当に『乱世の国』のように想います。


話を日本の戦国時代に戻しますと

織田信長豊臣秀吉、徳川家康と

『天下の三人』が当然有名です。


今年の大河ドラマで

主人公に取り上げられているとはいえ


直江兼続は

三人に比べると知名度は劣ります。


しかし

秀吉はこの直江兼続を高く評価しました。

一方の兼続は秀吉をどう想っていたのでしょう?

天下人に対して、当然警戒はしていたでしょう。

尊敬していたのでしょうか?

恩義に感じていたのでしょうか?


越後から会津へ移封された上杉家

そして秀吉の特命で

米沢三十万石に封じられた直江兼続。

当時

三十万石以上の大名は十人くらいだったといいます。


秀吉は本当に高く評価していたのでしょう。


それに対して、兼続は恩義に感じていたのでしょうか?

どうだったのでしょうか?


兼続は

米沢において検地を行い

税制を整備したといわれています。

また

兼続は

会津においても政務一切を仕切っていました。


上杉家は

景勝の下

兼続を中心に動いていたのでしょう。


三国志でいうならば諸葛孔明

春秋戦国時代ならば管仲

といったところでしょうか。


兼続自身は充実した日々だったかもしれません。


しかし

間もなく


京都伏見で

秀吉は此の世を去ります。


景勝も兼続も

急ぎ京都へ行き葬儀に参列します。


そして

秀吉の葬儀が終わると間もなく

二人とも会津に帰ります。



  まるで次に起こる出来事を察していた


               ようにも想えます。



会津若松において

一、道路や橋の普請工事

二、浪人の招集

三、武具の整備等

主に国防の強化に力を入れました。


また

若松城が狭いので

神指(こうざし)原に

新しい城の築城に取り掛かりました。

  この一連の行動が

     上杉家の命運を

        変える事になってしまったのです。


この戦国乱世に出現した

英傑・直江兼続は

090222_000958.JPG


『これから起こる出来事』

観えていたのでしょうか?


それとも


演じていたのでしょうか?

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2009年03月22日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第二回)




秀吉は

『天下の仕置きが出来る者』として

三人の名を挙げたこともあります。


『小早川隆景と堀直政、そして直江兼続』


特に隆景と兼続の評価は高かったといわれています。


しかし、こうも言っています。


『兼続は智恵が足りず、隆景は勇気が足りない』


こんな事をいう秀吉は

『流石の二人も自分に取って代わることは出来ない』

ということを

言いたかったのでしょう。


それでも秀吉はこの二人を気に入っていたようです。



小早川隆景と共に秀吉に器量を認められた直江兼続

090307_221101.JPG


彼は上杉景勝の重臣であります。

幼少の時から利発だった彼は

景勝の近習となる。

そして

戦国の巨星・上杉謙信が他界すると

養子になっていた景勝

    と

もう一人の養子である上杉景虎

     との間で跡目争いが起こる。


『御館の乱』であります。


彼・直江兼続は

この戦いで

上杉家の一門衆を調略したり勝利に貢献します。


兼続、十九歳でありました。


『なかなかの切れ者』


そんなふうに想われていたようです。


そして

二十二歳の時

越後の名家である直江家を継ぎます。


当時、直江信綱が非業の死を遂げたため

直江景綱の娘・お船が未亡人になっていました。

そのお船の婿に兼続が治まったのです。


ちなみにお船は二十五歳でした。

そして与板城主になりました。


兼続は与板城主時代

一、治水により増収を図ったり

二、低い税をかける等

領民に対して善政を行いました。


兼続は

トコネリの木を

越後全体に植えさせたといいます。

これは越後上杉家の宰相としての仕事ですね。


その理由としては

この木が戦争の時に

松明(たいまつ)として使えるためであります。

戦時に備えた政策でありました。


この頃でしょうか。

太閤秀吉との交流が始まったのは?


秀吉は上杉家に友好的だったように想います。



そんな景勝と兼続の前に

立ちはだかる敵が現れます。

上杉家にとっては身近な存在だったでしょう。


越後の北に領地を持つ


新発田重家


『新発田重家の叛乱』です。


この叛乱に対して兼続の動きは迅速だった事でしょう。

彼は奇襲を仕掛け

新発田勢を殲滅します。


『軍神・謙信公を彷彿とさせる』


そんな評価をする者もいました。

更に

上杉家に逆らう佐渡の勢力をも平定します。


その後も小田原征伐

また朝鮮出兵においても

兼続は上杉景勝の参謀として

力量を発揮し

武勲を挙げていきます。

兼続の活躍もあってか

この時の上杉家は

豊臣政権の一員として重要な役割を担うまでになっていました。

後に豊臣政権の

『五大老』の一人に景勝は任命されます。


秀吉は上杉家を信頼もしていたのでしょう。


上杉家を北の押さえとして


『会津九十万石』に転封しました。


そして

この時

直江兼続に

出羽米沢に三十万石を与えます。

 ⇒秀吉の命令によるものです。

兼続もまた、秀吉に気に入られていた故に

このような命令が発せられたのでしょう。

兼続の主・上杉景勝は全く嫌な顔をせず

この命令を受けたとのことです。

しかし

兼続は独立大名として振舞う事はありませんでした。

『独立大名』

つまり、それは『豊臣政権の一大名』

兼続も小早川隆景と同じ考えだったのでしょう。


それよりも

上杉家の築いた越後を離れなければなりません。


景勝と兼続はどのような心境だったのでしょう?

しかし

二人は耐えるしかなかったのです。

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2009年03月15日

秀吉が天下を任せてみたい漢達(第一回)







太閤・秀吉には『自分以外の天下』についての

逸話が数多く残っています。

或る日

家臣達に『自分の代わりに天下を治める者は誰だ』と尋ねます。

すると家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げます。

しかし秀吉が挙げた名前は


黒田官兵衛でした。


この話を聞いた官兵衛は直ぐに隠居したといわれています。


『秀吉と官兵衛』


お互いがお互いを知り尽くしていたのでしょう。


秀吉の恐ろしさを一番良く知っていたのが

『黒田官兵衛』だったのでしょう。


『こんな話が出てきたら潮時だ!!』

とでも想ったかもしれません。


それが官兵衛の出処進退に現れているような気がします。


また

官兵衛の恐ろしさを一番良く知っていたのは

『太閤秀吉』だったのでしょう。

秀吉は官兵衛が隠居しても

彼の存在が気になっていたのではないでしょうか。


また他に


秀吉は

『自分以外で天下を治める者がいるとすれば

         黒田官兵衛か小早川隆景であろう』

                    と評価してます。


『黒田官兵衛と小早川隆景』

  ⇒『智の人と賢の人』

私はこの二人をそのように表現したいです。


この二人は仲が良かったといわれています。


小早川隆景が他界した事を知った官兵衛は


『もはや、この国に賢人はいなくなった』

          と嘆いたといわれています。


隆景は戦国の智将・毛利元就の三男でありました。

彼は幼少の頃から

父の繰り出す数々の権謀術数を

目の当たりにしたことでしょう。

隆景自身も

父の権謀術数により小早川家に入ったようなものです。


『そんな父と同じ雰囲気を持った男』


隆景は黒田官兵衛に父を感じたのではないでしょうか。


そんな隆景は

温厚な人格者であり

人からも好かれるタイプであったようです。

それ故に秀吉も絶大な信頼を置き

独立大名に取り立てました。

秀吉は隆景に恩義も感じていました。

『本能寺の変』

毛利との戦いの最中に

信長の悲報を知った

秀吉は毛利方と和議を結びます。

そして中国大返しを実行したのです。

秀吉の軍勢に隆景の兄・吉川元春は追撃を唱えましたが

隆景はこの意見を抑えました。

『和睦をしたばかりで

    誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり

               信長の死に乗ずるのは不祥である』


これを聞いた秀吉は隆景に感謝したのです。


その隆景は秀吉が天下を取った後

『毛利家に感謝するだろう』と読んだのでしょう。


秀吉は隆景を自分のブレーンにしたかったことでしょう。


しかし隆景は豊臣家ではなく

毛利家の一員でした。


秀吉は

『甥の秀秋を毛利家の養子にしよう』

という思惑を持っていました。

隆景は先手を打って

秀秋を小早川家の養子に迎えます。

後年

小早川家は滅亡しますが

毛利家を守る事が出来ました。

滅亡の時

小早川隆景は此の世の人ではありませんでした。

しかし

彼は自分の死後に起こる出来事を

予測していたのかもしれません。


ちなみに秀吉の思惑を隆景に教えたのが

黒田官兵衛であったようです。

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2009年02月21日

中国史上唯一の女帝 則天武后(最終回)




武則天

中国三大悪女』と言われている彼女ですけども

彼女は『賢女』でもあった

と想います。


確かに

その所業には残虐な行為もありました。


そして

その行為は

肉親にも及びました。


そして

彼女の生涯を見てきて想いました。

武則天を『悪女』の一言で評価するのは違う気がします。

『本当の悪女』は

『賢女』の資質をも持ち合わせているのかも。




彼女の政治は大変安定していた事は

歴史が証明しています。

まさか、歴史を捏造しているとは想えません。

確かに大袈裟に伝えられていることもあるかもしれません。


しかし

中国という国は

古代より歴史を残す事に

命を懸けるくらいの国だと聞いたことがあります。




『武則天』



その存在は

中国史上において

大きくて無視できない存在であると想います。

『中国史上唯一の女帝』です。



そんな彼女は文字まで作っていました。


『則天文字』


日本で一番有名な則天文字は

『御三家の第二代水戸藩主・徳川光圀(みつくに)公』

彼の『圀(くに)』の字が

最も有名な則天文字だといわれています。

約千年の歳月を経て

異国である日本の地において使用されていたのです。

我が国にも当然、影響を及ぼしているでしょう。

『遣唐使』によって

いろいろなものが運ばれてきたのかもしれません。


さて、そろそろ

彼女の晩年の話をしたいと想います。

晩年になって

彼女には

若い愛人が何人かいたそうです。

その愛人達が勝手な振舞をします。


朝廷の資金を勝手に使います。


武則天は

諌めるどころか何も言いません。

『何が正しくて、何が間違っているのか』

それすら解らなくなったのでしょうか?


そんな状況を見ていて

一生懸命働いている官僚達は頭に来たのでしょう。


官僚達の信頼を失います。


そして

来るべき時が来ます。


『終焉の始まりです』


七〇五年

クーデターが起きます。

愛人は殺され

武則天も退位を迫られました。



  武則天は


     退位を受け入れました。



自分自身が衰退していくのを感じていたのでしょうか?


もう、どうでもよかったのでしょうか?

あれだけ、権力に固執していたにも関わらず。


そして

新しく皇帝の座に就いたのが

かつて

六週間で皇帝の座を奪われた

中宗でした。

『中宗』

皇帝として復活しました。

二年ぶりの皇帝の座でありました。


しかし

後に訪れる悲劇的な最期を

彼は知る由もなかったでしょう。


中宗の皇位復活と同時に

ここに

『大唐帝国』

が復活しました。


武則天

野望の物語に幕が降ろされようとしてました。



《クーデター以降の動き》

一、武則天の愛人の殺害

二、武則天の退位

三、中宗の即位

これらの動きは

一人の宰相の手腕によるものでした。

『張柬之(ちょうかんし)』

唐王朝復活の立役者といえるでしょう。

彼は武則天の意向に逆らい

左遷された事もあります。

その後、武則天により宰相に任命された姚崇(ようすう)に

重用されました。


そして中央で活躍していったのでしょう。


彼は

武則天に

『則天大聖皇帝(そくてんだいせいこうてい)』

の尊号を贈るのです。


体よく祭り上げたのでしょう。


張柬之がこれだけの動きが出来たのは

やはり

武則天の能力が衰退したからでしょう。


唐王朝が復活して

間もなく

『武則天』

則天武后は此の世を去ります。

ちなみに

『則天武后』

という呼び方は

日本で彼女を呼ぶ時に

最も多く使用されている呼び方とのことです。

彼女が皇后として埋葬された事が理由だそうです。

そして

今も

その身は

夫である高宗と共に眠っています。



『発掘調査など、決して行ってはいけない』

『その御霊を起こしてはいけない』

そんな気持ちです。

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2009年02月14日

中国史上唯一の女帝 則天武后(第八回)




神龍元年(六九〇年)武則天は皇位に就きます。

この元号も『天授』と変更します。

『天から授かった』

彼女は天命により皇位に就いたということを示したかったのでしょう。

また

自らを『弥勒菩薩』の生まれ変わりと称していたようです。


更に

国号を『周』とします。

古代の周にあやかったのでしょう。

『周の意志を継ぐ』

当時は周王朝は恐らく伝説上の国だったのではないでしょうか。

周の文王、武王、太公望呂尚や周公旦などは

恐らく理想の君主と臣下として

また

その存在は伝説上の偉人として万民に尊敬されていたと想います。

それ故に『周』と名付けたのではないでしょうか。

この武氏による周王朝

後に『武周』と言われます。


ここで

武則天が皇位に就くことが出来た理由は何か?

考えてみたいと想います。


『運が良かった』


その一言に尽きるでしょう。

確かにそうなんでしょうね。


ただ運が良くても皇帝になれるとは限りません。


彼女がどんなに運が良くても

皇帝になる意志を持っていなければ

皇帝にはなれないでしょう。


そして、その意志を持つという事自体が

当時としては大変な事だったのではないでしょうか?


周囲が女帝を求めるという事も

ありえなかったのかもしれません。


とにかく

いろんな条件が整ったのでしょう。



改めて考えてみたいと想います。



一、運がいい。

 ⇒『夢をかなえるゾウ』のガネーシャが

  力を貸したかもしれませんね。

二、彼女に皇帝になる強い願望(意志)及び強い支持がありました。

 ⇒しかし

  こんな話を聞いたことがあります。

  時は経て

  中国共産党の英雄・毛沢東(もうたくとう)の奥さんである

  江青(こうせい)がトップの座に就くという事を

  歴戦の将軍である朱徳(しゅとく)に相談したのでしょうか。

  その話を聞いた彼は


   『それなら自分の妻も立候補させようか?』


    と言って

  江青に断念させたという話を聞いたことがあります。

  強い願望を持っていても人望や周囲の支持が必要だと想われます。

  武則天には『人望』と『支持』があったのかもしれません。

三、敵は粛清

 ⇒肉親でも容赦しませんでした。

  この『冷酷さ』も彼女を皇位に近づけたのかもしれません。

  内政を安定させる一方で密告制度を行い

  恐怖政治を敷いていたのです。

四、優れた政治手腕

 ⇒三、でも申し上げましたが国内に内政の安定を実現させました。

  民衆も満足しており、治安も安定していました。

  また、国政は全て武則天により行われている事を

  万民は知っていたのでしょう。



これらの理由だけではないでしょうが

武則天は彼女取り巻く状況や周囲の環境など

様々な条件が整ったことにより

皇位に就くことが出来たのでしょう。

また

『彼女を超えるような人材がいなかった』

というのが一番の理由だったのかもしれません。


しかし

そんな無敵の女帝にも

退ける事の出来ない敵が現れます。


『老い』


彼女にも晩年がやってきました。


太宗・李世民もそうでしたが

武則天も老いてくると判断力が鈍ってきます。


  どんなに強い権力を握っていても

          どうすることも出来ません。



さすがの

武則天も

『時の流れ』には勝てないのです。

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posted by よしの at 12:00| 千葉 霧| Comment(2) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする