2008年07月04日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(最終回)







美濃国の難攻不落の城、

『稲葉山城』は金華山と呼ばれている

物凄い険しい山の上に建っている。

私も一度、行ったことがある。

天守閣まで行くのにロープウェイに乗っていったのを覚えている。

それくらい凄い険しい山であり、

私の目から見ても簡単に落とす事は出来ないと想いました。

城からの眺めも良く、下に長良川が流れている。

まさに『守るに易く、攻めるに難く』という感じの城であった。

北条氏と比較してしまうが、

北条氏には『小田原城』という天下の名城があった。

北条氏は、この『小田原城』を基盤に

関東に勢力を伸ばしていったのである。

斎藤氏も『稲葉山城』を基盤に親子仲良くしていれば、

信長の美濃攻略も簡単にはいかなかったと想う。

しかし道三と義龍は憎みあうようになってしまった。

そして、道三は義龍の弟達を跡目にしようと画策するのである。

それを知った義龍が先に動いた。

義龍は弟達を殺害した。

その後、道三に対して挙兵する。

道三も出兵して親子は長良川を挟んで対峙した。

兵力差は歴然であった。

一万七千の大軍が集まった。

息子の義龍の元に集まったのである。

それに対して、道三の軍は七千の軍勢であった。

美濃の有力武士達は道三の

これまでやって来た所業を嫌う者が多かったのだろう。

道三は美濃という国を獲ったが

美濃の人の心は奪えなかった。

享年六十三歳、息子の軍勢に破れ戦死するのである。

娘婿信長の軍勢は間に合わなかった。

そして数年後、その信長が道三のいない

美濃を誰にも気兼ねすることなく、心置きなく獲るのである。

そして、美濃の地で『天下布武』を掲げるのである。

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2008年07月03日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第六回)




斎藤道三は美濃の支配を磐石なものにした後、家督を義龍に譲った。

この時、出家して『道三』を名乗るようになる。

ここでようやく、斎藤道三という名前が登場する。

この時に稲葉山城も義龍に譲るのである。

そして、自分は鷺山(さぎやま)城に隠居している。

道三の国盗りの野望は成就した。

この時、彼は六十歳であった。

引退しても決して早い年齢ではない。

しかし、北条早雲は伊豆国を奪った後、

六十歳を過ぎてから相模へ攻め込んでいる。

そして、関東を狙っている。

二人とも元気である。

『老いて益々盛ん』といったところであろうか。

しかし、道三の周囲にはしっかりした基盤を持つ大名達がいたせいか

美濃一国の他に勢力を伸ばす事が出来なかったのだろう。

北条早雲の目指した関東には大きな勢力を持つ大名はいなかった。

斎藤道三と北条早雲を比較しても、

その地政学的な問題もあっただろう。

それに決定的な違いがそれぞれの跡継ぎであろう。

北条家は戦国の世に五代続き、関東に覇を唱えた。

特に早雲の孫である三代目の北条氏康は戦国を代表する名将である。

それに比べ、斎藤家はどうであろう。

道三と義龍の関係は冷え切っていた。

親子が二人三脚で事業を発展させたなどという

記録も残っていないという。

あるいは、意図的に消されたのかもしれない。

二人がもっと協力していれば後の不幸はなかっただろう。

道三と義龍の関係が悪くなったのは、

義龍の出生の理由が原因だと言われている。

義龍の生母は美人で有名であった深芳野。

もともとは道三の主君であった土岐頼芸の愛妾であった。

しかし、道三が頼芸の兄である政頼を越前に追放した時に

褒美として、道三に与えたのである。

その時、深芳野は道三の子として義龍を生んでいる。

それは彼女が頼芸から道三に下げ渡された

十ヶ月後という微妙な時期であった。

そのため、義龍は頼芸の実子であるという噂が、

美濃国内では語られていたのである。

義龍も、この噂を信じていたという。

そして、道三を憎むのである。『父の仇』として。

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2008年07月02日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第五回)




斎藤道三。

司馬遼太郎氏の著書『国盗り物語』において

主役の一人として登場する。

明智光秀は甥にあたる。

この関係も他説があるかもしれない。

明智光秀は道三の弟子という感じで扱われているが、

光秀は道三から何を学んだのだろうか。

二人に共通する点は、『非業の死を遂げた』という事だろうか。

その二人の死に共通する人物が織田信長であった。

その信長の父である織田信秀が土岐頼芸の為に兵を挙げる。

そして、それに呼応するように頼芸の兄である土岐政頼を庇護する

越前朝倉氏が兵を挙げる。

織田、朝倉の連合軍が美濃を北から南から攻撃しようとした。

この連合軍を成立させたのが頼芸であった。

道三の危機であった。

それぞれの軍勢のお陰で、頼芸も政頼もそれぞれ城に入った。

久しぶりの美濃の城であった。

織田信秀は大軍を率いて稲葉山城下まで攻め込んできた。

それに対して道三は籠城戦に持ち込んだ。

信秀はこの難攻不落の城に大規模な攻撃を仕掛けた。

これが、いけなかった。

信秀の攻撃に対して斎藤軍の猛反撃に遇った。

その結果、織田信秀の軍勢は壊滅的な大損害を受けた。

謀略でなく、実践の指揮で正々堂々と大勝利を収めたのである。

いや、もしかしたら何か策略を巡らした可能性もあるだろう。

それは、当然である。

とにかく戦も強かったのである。

この戦いにより、織田信秀の美濃への野望は消えたのである。

相当、酷い目にあったのだろう。

そして、越前でも土岐政頼が病死したことにより、

朝倉氏は美濃に敵対する大義名分を失った。

ここに道三の包囲網は崩れたのである。

やがて、織田信秀は考えを変え、

道三の娘である濃姫を息子の嫁に迎えるのである。

その婿は、ご存知『大うつけ』の織田信長であった。

運命の瞬間であった。

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2008年07月01日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第四回)




斎藤道三。

次々に主を殺し、そして追放して主家を乗っ取り

美濃一国を手に入れた。

まさに戦国を象徴する生き様であった。

しかし、このような道三の行動を周囲の武将達は

どう想ったのだろうか。

道三には自分に代々仕える家臣がいなかった。

その点は秀吉と同じであるが、彼のやり方は秀吉とは違い、

周囲を敵に回さずにはいられなかったのだろう。

それが、後の悲劇に繋がるのである。

それ故、人心まで掌握することは出来なかったのかもしれない。

美濃という土地は昔から、多くの土着の勢力が割拠していた。

それ故、守護職がいても支配するのが難しかったのである。

そんな美濃を道三は知略を使い、

この支配の難しい土地を支配し、

その支配を磐石なものとするのである。

まず、叛乱の火種は早めに潰し、国内の治安を安定していった。

その次に手を付けたのが、産業の育成であった。

商人であったという説もあるだけに、

経済を発展させることを考えたのであった。

流石に只者ではない。

経済力が如何に大切であるかという事を熟知していたのであろう。

また、美濃は濃尾平野もあり、交通の要所でもある

潜在的な経済力を持っていたのであった。

そして、道三の力で美濃は

戦国時代でも豊かな強国となったのであった。

だが、道三もこのままでは済まなかった。

道三に追放された土岐頼芸が織田信秀の庇護の元に、

水面下で動いていた。

目指すは『道三の首』であった。

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2008年06月30日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第三回)




長井長弘こと斎藤道三は土岐頼芸を美濃国守護の座に付かせ、

絶大な信頼を得たのである。

そして当時、国政を仕切っていた長井長弘。

かつての恩人であるが、この恩人が邪魔になったのだろう。

今や美濃国守護土岐頼芸をバックに付けた道三は上意により、

長井長弘に不忠の罪をきせて殺害したのであった。

そして、道三はこの長井家を乗っ取り長井新九郎を名乗りながら

美濃の国政を仕切るようになった。

しかし、この辺もいろいろな説があるようである。

謎が多いのである。

さらに守護代の斎藤利良が病死すると、

すぐに、その跡目を彼が継ぐのである。

道三は斎藤利政、そして後に斎藤秀龍と名乗った。

ここに長井家と斎藤家という美濃の名門を継いだことで、

彼の美濃における基盤は磐石となった。

斎藤道三の野望はさらに続くのであった。

そして、斎藤氏の居城である稲葉山城を手に入れ、

この城を大改築して難攻不落の要塞にしたのである。

これにより、美濃国内では無視できない存在となっていた。

『無視できない勢力』と言い換えてもいいだろう。

道三の後ろ盾になっていた土岐頼芸は

『後ろ盾』のつもりでいただけで利用されていたのである。

頼芸も流石にそれに気付いた。

しかし、時既に遅かった。

道三は既に次のターゲットとして土岐頼芸を見ていたのであった。

道三は頼芸の城を大軍で急襲して陥落させた。

そして、土岐頼芸を尾張国へ追放するのである。

これにより道三は事実上、美濃国主となり、

ここに『美濃一国』を手に入れたのである。

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2008年06月29日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第二回)







斎藤道三の生涯はサクセスストーリーそのものであろう。

豊臣秀吉の生涯もそうであるが、

二人の違いは『国獲り』と『天下獲り』の違いでもある。

秀吉よりも時代が先行する斎藤道三や北条早雲の生涯を

当時の日本人はどのような目で見ていたのだろうか。

『俺だって国を獲れる』、

今で言うならば『社長になれる』というところであろうか。

そう想った人間は数多くいたに違いない。

しかし、それは同時に戦乱を呼ぶ

『下克上の風潮』ともなったのである。

それ故に、道三のイメージの悪さもあり

彼を英雄扱いする人はあまりいないだろう。

北条早雲は別として、

謀略に明け暮れた生涯がつきまとうからであると想う。

そんな斎藤道三、長井氏の家臣として西村正利と名乗り、

歴史の舞台に上がろうとしていた。

まずは美濃国守護の土岐氏の次男である土岐頼芸(ときよりなり)に

取り入って信頼されて、その重臣となるのである。

ここから、道三の謀略が牙を剥くのである。

そして、美濃国守護土岐氏の家督争いが起こる。

頼芸とその兄の政頼との戦いである。

しかし、頼芸はこの戦いに負けるのである。

だが道三の動きは早かった。

道三は即座に政頼に夜襲を仕掛け、

政頼を越前に追放したのである。

西村正利こと道三は頼芸の逆転勝利に大いに貢献したのである。

同時に頼芸は道三を大いに信頼するのである。

そして、土岐頼芸を美濃国守護に就けた道三は

次のターゲットを定めていた。

当時、譜代の重臣であり国政を仕切っていた長井長弘、

道三の恩人であった。

この長弘に道三の牙が向けられた。

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2008年06月28日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第一回)




戦国時代を代表する梟雄の一人、斉藤道三。

その生き方は凄まじいものであった。

世間一般に伝わっているイメージとしては、

謀略につぐ謀略により欲しいものを手に入れたような感じであろう。

『彼一代で美濃一国を手に入れた男である』

様々な噂も流れていただろう。

そんな道三は美濃守護の土岐氏の重臣である

長井長弘(ながいながひろ)の家臣として取り立てられた。

ここから、道三の野望は始まるのである。

それ以前の道三の人生は様々な説がある。

京の油問屋の婿養子として油売りを商売としていたらしい。

また、別の説では明覚寺という寺の僧であったともいわれている。

本当はどうだったのだろうか。

彼は長井氏の家臣になってから、

武芸とその才覚で頭角を表わしていく。

彼は元々、有能な人間であったのだ。

それ故、周囲にいる家柄や地位のみが頼りの人間どもに

負けない自信を持っていたかもしれない。

そして、その自信が野望へと変わっていったのだろう。

それ故に、彼の力だけで美濃一国の国主にまでなれたのだろう。

それは、並の才能ではなく

稀代の戦略家であることだけは確かであった。

地方の国人でも小大名でもなく、無名の一人の人間である。

頼れるものは自分の力だけである。

基盤のない斉藤道三とは、他の梟雄達とは違う。

梟雄と呼ばれる北条早雲や松永久秀とは、

その辺が違うところだろう。

家柄など関係なく優れた人間や強い人間が勝ち抜く時代、

それが戦国時代であった。

日本史上でも、この時代ほど実力本位の時代はなかっただろう。

それ故に、後の『下克上』を可能にしたのであった。

さて、長井氏の家臣となり

その家臣の西村氏の家名を継いで西村正利を名乗る。

くどいようだが、ここから彼の野望が始まるのである。

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2008年06月27日

我は覇者なり 斉の桓公(最終回)




桓公が即位してから四十一年、宰相の管仲が病に倒れた。

桓公はさぞ狼狽した事であろう。

管仲の見舞いに行き、今後の事を相談したのである。

『そなたに万が一の事があった場合、誰を宰相にしたらいだろうか』

と管仲に聞いたのである。

桓公は自分の意中の人間を三人挙げた。

そして、管仲の答えは『いずれも相応しい人物はおりません』

というものであった。

そして、明確に管仲は自分の後継者を告げないまま、

その生涯を閉じたのであった。

後に桓公は管仲の忠告を無視し、

自分の意中の三人を重用したのである。

すると、この三人は権力を欲しいままにして

皇太子昭(しょう)を廃し、

自分達の傀儡に出来る公子を太子に据えたりした。

やりたい放題であった。

管仲の人を見る目は正しかった。

そして桓公は後悔した事だろう。

『管仲に会わせる顔がない』という想いであったかもしれない。

桓公には三人の夫人がいた。

しかし、三人には子がなかった。

その一方で六人の愛妾達には子があり、

男子だけで十人以上いたのである。

そのうち、後継者の資格を持つ公子として五人を決めていた。

管仲が生きている間は安定していた政治は、

その死後、先に挙げた三人により混乱に陥るのである。

即位してから四十三年目、桓公が病に倒れてしまう。

桓公に最期の時が迫っていた。

公子達はそれぞれの勢力を創り、跡目争いをしていた。

そして、争いは内乱へと発展していった。

病に倒れている桓公にはどうする事も出来なかったのだろう。

『管仲が生きていれば、こんな事にはならなかっただろう。

あるいは鮑叔がいたら・・・』と想った事だろう。

誰も桓公の事などどうでもよかった。

公子達は権力闘争に明け暮れていた。

そして、桓公は此の世を去った。

その死が発せられても公子達は闘争を止めなかった。

桓公の遺体は死後六十七日放置されたままであった。

その遺体にはウジが湧いていたという。

そして、この内乱のせいで斉の国力は低下し、

覇者の地位は晋の文公こと重耳が継いだ。

中国史上最初の覇者である桓公の末路は

大変悲劇的なものとなってしまった。

これが、中原に覇を唱えた男の末路とは悲しすぎる。

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2008年06月26日

我は覇者なり 斉の桓公(第五回)










桓公が即位してから二十年以上経った頃、

異民族の山戎(さんじゅう)が燕に攻め込んできたのである。

桓公は燕の援軍要請を受けると、

軍を率いて見事に追い払うのである。

異民族との戦いが終わると燕王は桓公を見送った。

話は反れるが燕は『王』を名乗り、斉は『公』を名乗っていた。

これは、燕が中原より東の辺境にあるため独立色が強く、

燕の君主は『王』を名乗っていたのである。

しかし、実質的には『公』と変わらないのであった。

その燕王が桓公を見送った時、斉の国境を越えてしまった。

これは、大変な事であったのだ。

当時、『君主が国境を越えて見送るのは天子に対する時のみである』

というのが、しきたりであった。

つまり、諸侯同士の場合は国境線まで

見送るというのが慣習となっていた。

桓公は『礼に反した事を燕王にさせてしまった』

そこで桓公は自分と燕王との間に溝を掘らせ、

そこを新たな国境としたのであった。

これは、斉の領土を燕に割譲したことになるのだ。

助けてもらった上に領土まで与えられた燕王は

大変感謝したどころか、感動したであろう。

そして益々、桓公の名声は高まったのである。

これも、もしかすると管仲がそうさせた可能性も高いだろう。

『与える事は取る事である』

燕に領土を与えた事により、名声と人望を手に入れたのである。

桓公は覇者として名実共に権威と権力の頂点を極めたのである。

そんな栄華を極めた桓公は魔がさしたのであろうか。

少し有頂天になっていたのかもしれない。

桓公は天子のみが出来る『封禅の儀』を行うと言い出した。

これは周の天子を無視して、

自分が天子になると言っているようなものであった。

管仲は『なりません』と必死に諫死して、これを止めた。

懸命に説得してどうにか思いとどまらせたのであった。

このあたりから、桓公がおかしくなって行くのである。

それを一番感じていたのは管仲であっただろう。

恐らく、管仲の心中は悲しみに溢れていたかもしれない。

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2008年06月25日

我は覇者なり 斉の桓公(第四回)










斉の桓公は管仲という名宰相を手に入れた。

鮑叔の助言が無ければ、

恐らく管仲は歴史に名を残す事は無かっただろう。

そして、桓公の人生も違ったものになっただろう。

『桓公と管仲』という

中国史上でも稀に見る名コンビは生まれなかっただろう。

桓公自身も鮑叔を信じていたのだろう。

その信頼は大きかった故に、管仲を登用したのである。

管仲を自分の側近に置く度量も見事だが、

もしかしたら管仲自身の

優秀な力量を知っていたのではないだろうか。

管仲が有能であることは

恐らく斉の国の中でも知れ渡っていた事実だったかもしれない。

その理由としては、鮑叔の存在が大きかったであろう。

彼の家は大夫の家柄であり、その管仲とは旧知の中であった。

恐らく、鮑叔や彼の周辺から管仲という人物について、

その有能ぶりが広まったのではないだろうか。

さて桓公は管仲と共に、

まず斉の国内の政治改革を断行するのである。

『富国強兵』を推し進めていくのである。

ただ、『強兵よりも富国が先です。』と

管仲は富国を優先していった。

物価を安定させ、斉が海を持っていた事から

塩の専売や漁業を盛んにした。

そして、その利益により領民を豊かにしたのである。

すると民衆は喜んで働き、国は益々豊かになった。

さらに、自由に商人を呼び寄せ、商業を盛んにした。

また、有能な人材も積極的に登用した。

さらに、魯に攻め込み領土を奪った。

この時の講和会議で魯の将軍が桓公に飛び掛り、

『奪った領地を返せ』と脅迫した。

桓公はそれに応じざる負えなかった。

会議が終わると、桓公は烈火の如く怒り

『あんな約束は無効である』と無視しようとしたが、

管仲は『例え、脅迫によろうとも

一度結んだ約束は守らねばなりませんぞ』と桓公に約束を守らせた。

魯から奪った領土を返還したのである。

すると、その経緯を聞いた諸侯達は桓公は

『信頼するに足る君主である』と評判になり、

小国の君主などは進んで

斉の桓公を頼りにするようになったのである。

桓公はこの時、『信義』が如何に大切かを想い知ったのであった。

そして桓公が即位して七年、国力は充分に強化された。

諸侯が集まって協力体制を確認する会議が開かれた。

いわゆる『会盟』である。

斉の桓公はこの時『覇者』と認められ

天下に号令をかけるようになった。

『覇者』が誕生した瞬間であった。

そして今までの『周』王朝のあり方が変化したのである。

今まで、諸侯に号令をかけることが出来たのは、周王のみであった。

それが、周王から覇者へと変わったのである。

さらに後の会盟では周王朝からの使者も派遣され、

表向きは覇者である桓公に

政権を委ねたということを天下に示したのである。

日本で例えるならば、

天皇が征夷大将軍を任命する形になったような感じだろうか。

ここに斉の桓公は『覇者』として、政権を運営していくのである。

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