2010年05月14日

カミソリ大臣 陸奥宗光(最終回)

新しき時代『明治』の御世に誕生した

新しき日本が

本格的に世界の舞台へ踊り出る時が迫ってきました。


明治二十七(一八九四)年五月

朝鮮半島において

内乱が起きます。


『東学党の乱』

(歴史の授業で習ったような気がします。)


日本は軍を派遣します。

当時の

朝鮮政府が

日本に要請したといわれています。

そして

朝鮮政府は

日本軍と

同時に

別の国にも

軍の派遣を要請していました。

『清国』

  ⇒眠れる獅子といわれていたとか。。。


 日本も清国も

    この時を

      待っていました。



しかし

まもなく

朝鮮政府と反乱軍の間で和睦が結ばれると

乱は終わります。

朝鮮政府は

両国に撤退を要請します。



  両国は撤退をしません。



同年八月一日

日本は清国に宣戦布告します。


『日清戦争』

 陸奥宗光が後に回想しているように

   『朝鮮半島における日本と清国の権力闘争の結果』

      と

    この戦争を回顧しています。


 『朝鮮の実権を握る為の権力闘争』

 『朝鮮を日本の防衛線にする為の戦争』

日本にとって

日清戦争とは

どういう意義を持った戦争だったのでしょう?

今までは

単純に

朝鮮半島を手に入れる為の戦争だったと想ってました。

そういう目的もあったとは想いますが・・・



日本を西欧諸国に認めさせるための戦争


陸奥はそう想っていた気がしてなりません。

個人的に

陸奥の行動から想像しますと

そんな気がします。


陸奥は清に対して

『強硬派』だったといわれています。

最近

テレビドラマになった

『坂の上の雲』でも

大杉 漣(おおすぎ れん)さん演じる

陸奥宗光が

伊藤博文や

強硬派の陸軍の川上操六と

画策していた様子が

確か放送されていたと想います。

そんな陸奥の活躍する場は

やはり

『外交の場』でした。


日清戦争において

彼の外交は

神業だったといえると想います。


『イギリスとロシアの中立化』


しかも日本に好意的だったと言われています。


この外交のおかげで

日本は清国のみに集中出来たと想います。

そして

日本は

この戦争に勝利します。

この勝利は世界を驚かせたことでしょう。


戦後の講和会議

陸奥宗光は

伊藤博文と共に

『日本の全権』として出席します。

そこで

日本に大変有利な条件である

『下関条約』

 を結びます。

これら一連の外交は

 後に

  『陸奥外交』

     と呼ばれます。

陸奥外交は日清戦争の勝利の一因だったと想います。


一、朝鮮国を独立国と認めさせます。

二、多額の賠償金を清国から手に入れます。

三、清国から日本へ遼東半島等の領土の割譲




世界は

明治日本を無視出来ない存在となったことでしょう。



条約を結んで

すぐに

世界の厳しい洗礼を受けます。

『三国干渉』


ロシア、ドイツ、フランスの三国が

『遼東半島を清国に返せ』と

日本に迫ってきます。


陸奥はいろいろと画策したようでしたが

止むを得ないと決断し

この干渉を受け入れます。



『臥薪嘗胆』


これが後に

『日露戦争』へと発展していく事になるのです。


しかし

その発展の様子を

陸奥の目に映すことはありませんでした。


外交を直接担当した

陸奥の胸中には

どんな想いがあったのだろうか?

相手がロシアと特定出来ていたか解りませんが

『後にもう一度戦争があるだろう』なんて予測していただろうか?

三国干渉の時に

そんな事を想ったかもしれません。


そんな鋭い感覚を持つ彼は

この頃

肺結核を患っていました。



明治三十(一八九七)年八月

その肺結核により此の世を去ります。

享年五十四歳


彼は何を想いながら

天に召されたのだろうか?

海援隊で共に活躍した

坂本龍馬の事を想い出していただろうか?

『幕末の奇跡』と言われた龍馬

彼がいなければ

明治維新はなかったと。。。


そして


陸奥がいなければ

日清戦争の勝利や不平等条約の改正もなかったと。。。


そう想います。



陸奥は

『龍馬さんは俺のやって来た事をどう想うだろうか?』

なんて想ったのでは?



あるいは

最愛の妻

亮子の事を想いながら床に就いていただろうか?

あのような綺麗な奥さんを持てた彼を

心から羨ましく想います。


それとも

日本の将来を想いながら此の世を去ったのだろうか?



陸奥宗光


彼に一目置いたのは

坂本龍馬や伊藤博文だけではありませんでした。

福沢諭吉や西園寺公望も期待していた政治家だったようです。



最後に

陸奥宗光の有名な言葉で締めくくりたいと想います。



『政治はアートなり、サイエンスにあらず』


  政治は

    心に響く芸術であり

       実験のような科学ではない。


私には

そう聴こえます。


そして

今の日本という国は

アートの結果なのか?

サイエンスの結果なのか?

彼に聴いてみたいものです。


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2010年04月27日

カミソリ大臣 陸奥宗光(第四回)

学生時代

日本史の授業で

必ず出てきたのが

明治政府の『条約改正』問題

この問題が

日本という国の歴史にとって

如何に大きな問題だったかを物語っているように

想えます。


徳川幕府の結んだ不平等条約

 それは

  維新の動乱を起こす 

     原因の一つ

      一大事件だったのです。


一、『治外法権』を認めさせる

  ⇒犯罪など犯しても

   日本の法律が適用されないということだったでしょうか?

二、『関税自主権』が無い

  ⇒関税を日本が決定出来ない

             
『不平等な約束事を結んでしまった』

長い鎖国政策による

国際感覚の喪失が原因とは

一概には言えないと想いますが・・・


欧米列強に進出を許した国によっては

領土の割譲もあったわけですし・・・。

日本は開港こそ実行しましたが

領土の割譲が無かった事は

不幸中の幸いと言えたかもしれません。

しかし

その行為に対して

日本中の志士達は国の行く末を憂えた訳であり

その情熱と行動力が国を変えた訳でもあると想います。



この不平等条約は明治の御世になり

国の舵取りを取る

明治政府にとっても

新しい国づくりの為に

大変な重荷であり障害だった事でしょう。

世界各国と

まともに付き合えなかったと想います。


条約改正こそ

『明治政府にとっての最重要課題』

      なんて言葉も聞いた事があります。


この条約を何とかしたい為に


『岩倉遣欧(けんおう)使節団』により

       欧米視察を行ったり

『鹿鳴館建設』など

      欧米化を形で表現しました。


涙ぐましい努力をしていく訳です。


そんな明治政府の中も

維新三傑といわれた

西郷隆盛

木戸孝允

そして

大久保利通も

既に

この世に無く

彼らの次の世代が

明治政府の舵取りをしていました。

その代表が

伊藤博文

山縣有朋

黒田清隆

松方正義

といった人物達でしょうか?

その

伊藤博文により

才覚を見込まれ

外交官として国政に復帰していた

陸奥宗光は

公使として海外各国に赴任していました。

そして

帰国すると

山縣内閣の農商務大臣に就任するなど

政治家として活躍する場を与えられます。

ちなみに

この時

秘書だったのが

後に『平民宰相』と呼ばれる総理大臣

原敬でありました。

陸奥から

いろいろな事を学んだのではないでしょうか?


その後

第二次伊藤内閣において

外務大臣に就任します。

恐らく

この時の陸奥は

物凄く迅速な行動をしたように想います。



明治二十七年(一八九四)

イギリスとの間に条約を結びます。

不平等条約の一つである


  『治外法権の撤廃』

       に成功します。

日本とイギリスの

それぞれの思惑が

この成功を生んだのでしょう。

その後

アメリカ、ドイツ、フランス等

十五ヶ国の間で

『治外法権の撤廃』を成し遂げます。


この大仕事は

陸奥の名声を後世に残す大偉業となりました。

その外交手腕や

恐らく鋭い舌鋒だったことでしょう。

それ故に

『カミソリ大臣』

彼の渾名です。


そのカミソリの切れ味は

まさに『神業』といえるものだったかもしれません。




同年五月

 陸奥にとって

   明治政府にとって

       大きな試練が訪れます。

その試練は

明治『日本』を

世界の舞台へ起たせることになります。

それは

アジアの

新しい新興国が誕生した瞬間でありました。


天は

陸奥宗光に休む暇を与えることなく

この試練にも手腕を奮わせます。


彼も五十歳を迎えていました。

政治家としても

一人の人間としても

充実していた頃だったのではないでしょうか。


しかし

彼は・・・


自分に残された時間が多く無いことを

この時

知っていたのかもしれません。


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2010年04月11日

カミソリ大臣 陸奥宗光(第三回)

立派な髭を蓄えた陸奥宗光の肖像画を見ると

その表情には

『理屈っぽさ』を感じます。

そして

その目をじっくり観ますと

カミソリの異名に相応しい

怜悧なものを見受けられます。

それが肖像画から感じる自分の感想です。

自分にとって

冷たい印象の強い

大久保利通よりも怜悧に感じました。

そんな

陸奥が

我を忘れて

怒りに任せて行動した事件がありました。

陸奥が龍馬暗殺の黒幕と想いこんだ

紀州藩士・三浦休太郎を

海援隊の同士達と襲撃しました。

その時

三浦には新撰組が警護していたそうです。

その中には

新撰組の中でも

一、二の強さを誇った斉藤一もいたそうです。



海援隊

   対

    新撰組


幕末でも

有名な集団同士の最初で最後の勝負があったのですね。

後に

『天満屋事件』

   といわれます。

お互いに死傷者を出す大乱闘だったようです。

この頃は

まだ血気盛んなところもあったのでしょう。

まだ『幕末の志士』だったのでしょう。


そして

時は流れ


『明治維新』


時代は

明治の御世になります。

陸奥は新政府の一員になります。

兵庫県知事などを歴任します。


その頃

初めの妻・蓮子が他界し

翌年には後妻として

亮子と結婚しています。


明治という新しい国の中で

彼もいろいろな事を考え苦悩したことでしょう。

陸奥は

西南戦争に影響を受けたのでしょうか?

何を想ったのでしょうか?

西南戦争の勃発に合わせたように

土佐の過激な一味と

政府転覆を企てます。

陸奥が中心になって策を弄したかもしれませんね。


しかし

この事が発覚し

投獄されます。

『禁固五年』


投獄中も

彼は愛妻・亮子に手紙を書きまくっていたといわれてます。

恐らく投獄中も勉強していたのでしょう。

そんな陸奥の才能を惜しむ男がいました。


『伊藤博文』


明治十六年(一八八三)

特赦により

釈放されます。

伊藤は陸奥にヨーロッパ留学を勧めます。

陸奥はヨーロッパの地で沢山の事を学んだと想われます。

この留学が陸奥宗光という外交官

そして

政治家としての基盤を創り上げたのではないでしょうか?

この留学は

陸奥宗光だけでなく

新しき日本の運命をも変えるものだったのかもしれません。

明治十九年(一八八六)

帰国した陸奥は外務省で働くのです。


陸奥宗光


この時

明治の政治家としての人生が始まったのです。


坂本龍馬と駆け抜けた幕末

そんな乱世を生き抜いた彼は


その心の中に

何を想っていたのでしょう?


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2010年03月14日

カミソリ大臣 陸奥宗光(第二回)

陸奥宗光

彼の奥方の肖像画を御覧になったことがありますか?

『・・・・・』


『なんて綺麗なんだろう!!』

『美しい』

心から

そう想います。

陸奥亮子様

夫の宗光がアメリカ公使として渡米した時

アメリカ人も彼女の美しさに驚いたそうです。

『当然だと想いました!!』

しかも

大変賢い女性で

英語も完璧にマスターしていたようです。

『ワシントン社交界の華』

そんな評価をされるようになります。

宗光を

大いにサポートしたのではないでしょうか。

宗光自慢の妻

 であったに違いないですね。

『間違いありません!』

彼女は

旗本の娘として江戸に生まれます。

しかし

明治維新により

禄を失い

家が没落します。

大変だったことでしょう。

そこで

彼女は芸妓となります。

すると

彼女の美貌は評判となり

新橋でも

一、二を争う人気芸妓となりました。

そんな彼女を

モノにしようと

政財界の大物達が何人もいましたが


『武士の娘としてのプライド』

 どんなに大金を積まれても

    決して落ちませんでした。

肖像画にも

どことなく

『強い意志と気高き気品』を感じます。

それ故

『男嫌い』なんて噂も立つ程でした。

そして

陸奥宗光も

彼女に魅了された一人だったのでしょうね。

宗光は一年前に妻を亡くしていました。

そんな時に

彼女に出会い

運命を感じたかどうかは判りませんが

亮子にアタックします。

すると

何故か

何故なんでしょうか??

亮子は

『宗光と一緒になる』

何か魅かれたものがあったのかもしれません。

二人が出会ったのは

明治六年(一八七三)の頃で

宗光二十九歳

亮子十七歳

二人は結婚しました。


しかし

この後

美しき妻・亮子に待ち受けている運命も

大変なものだったでしょう。

夫・宗光のせいで苦労したことでしょう。

『幸せは簡単には訪れない』

それでも

彼女の男を見る目は確かであり

そして

何よりも

愛していたのでしょう。

そして

『絶対に幸せになれる』

 と信じていたかもしれません。


少しだけ

この宗光の美しき最愛の妻・亮子様を紹介する予定でしたが

長くなってしまいましたね。

10.03..07 007.jpg


話を前回に戻すと

宗光の最愛の師であり最も尊敬する人物

坂本龍馬

海援隊で龍馬と共に活躍します。

『龍馬の右腕』のような存在だったかもしれません。

この頃から

外国人相手の商売をしていた。

どうやら彼には合っていたのかもしれない。

真面目に働きます。

夢と希望を抱きながら真面目に頑張っていたことでしょう。

ちなみに

宗光は龍馬を

 『彼は融通変化の才がずば抜けている。

     その能力は彼の右に出るものはいない。

          自由自在な人物であり大空を翔る奔馬』

                        と評価している。

明治の世になっても

滅多に人を褒めない男にとって

龍馬は別格だったのでしょう。




慶応三年(一八六八)十一月十五日

  
     坂本龍馬


           暗殺



宗光の運命を変えた大事件

この悲劇を聞いた宗光は行動を起こすのであった。

それは恐らく

本能のままの衝動

『抑えきれない怒りと共に』



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2010年02月07日

カミソリ大臣 陸奥宗光(第一回)

日本史上においても

優れた能力を持ち

素晴らしい成果を挙げた外務大臣

日本史上でも

五本の指に入る外務大臣ではないでしょうか?

いや

なかには

最高の外務大臣という評価もあると聞きます。


『陸奥宗光』


学生時代

教科書や資料に

掲載されている

彼の肖像画を見た時

『日本人なのか?』

そんな印象を持ちました。

更には

秋山好古

大久保利通など

まるで

西洋人のような風貌の明治人達


学生時代

そんな想いで

彼らを見ていた記憶があります。


明治維新を成し遂げ

誕生した

日本という新しく小さな国


西洋列強に追いつこうと

必死になっていた彼らの中でも

特に必死に

『追いつき 追い越せ』

   という気持ちの強かった人間が

 その姿形まで

  西洋化したのであろう。

      なんて事はないでしょうね。


そんな西洋化した姿形の陸奥宗光であるから

西洋列強の屈強な外交官達にも引けを取らずに

 数々の外交官としての

      輝かしい功績を

     残す事が出来たのかもしれません。

             なんて事もないでしょうね。


陸奥宗光

幕末に生を受けた彼は


海援隊の一員であったことは有名です。


『海援隊』


彼は坂本龍馬の片腕として

その手腕を発揮するのであります。

龍馬を兄のように慕っていたといわれています。

龍馬と過ごす日々が

宗光に大きな影響を与えたことは想像出来ます。


そんな彼の生い立ちは

紀州藩士の子として生まれます。


陸奥陽之助(むつ ようのすけ)


彼の父は

幕末において

高名な国学者としても知られた

伊達宗広(だて むねひろ)でありました。

その知行は八百石

紀州藩でも重臣の家柄であったそうです。

宗広は勘定奉行として活躍したといわれています。

また

彼の先祖は伊達政宗

分家の駿河伊達家の血を引いていたという

申し分の無い血筋です。

その為

陸奥姓の他に

伊達姓を名乗っていたといいます。

それにしても

あの伊達家もいろいろと分家があるのですね。

自分は

宇和島伊達家くらいしか知りませんでした。

調べてみますと

出雲伊達氏、但馬伊達氏と沢山あります。

その中の

紀州伊達氏が駿河伊達氏から分家したようです。

更に先祖を遡りますと

伊達政宗の末っ子・伊達宗勝の血筋だとのこと。

『伊達騒動』で御馴染みの政宗の十男です。

そんな家柄の出自である宗光

もし

幕末動乱の時代でなく

平和な時代だったなら

紀州徳川家の重臣として

その生涯を終えたかもしれません。

しかし

時代は

陽之助少年にとって

残酷な運命を与えました。

彼が幼少の頃

父・宗広は藩内の政争に負けて

失脚してしまいます。

それ故

陽之助の家は困窮します。

禄も失ったようです。

そんな陽之助は

父親の影響でしょう。

尊皇攘夷思想を持っていました。

脱藩して上洛し

捕縛され幽閉されたこともあったようです。


裕福な生活から貧乏な生活に一変します。

この頃の経験も意外と役に立ったのではないでしょうか。

そして彼の思考といいますか

ものの考え方も変わったのではないかと想います。

『多くのことを学んだ』とも言えるでしょう。

一、用心深さ

二、将来を予測する力

三、時代の動きを読む力

更に

これらを敏感に感知する鋭敏な能力を身に付けたのでは?

それが後の

『カミソリ大臣』

 などと渾名される基盤になったかもしれません。

『貧しさなどの苦労は人を強くし、能力を開花させる』

そんなことを教えられた気がします。


安政五年(一八五八年)

陽之助少年、十四歳の時

江戸に出る機会が訪れます。

藩による許しを得たのか?脱藩したのか?

判りませんが。

江戸の

儒学者・安井息軒(やすい そっけん)の門人になります。


しかし

陽之助は感じたようです。


『古臭い』


そんな想いを抱き

儒学の勉強に興味を持たなくなります。


挙句の果てに

遊郭(ゆうかく)に通いつめるようになります。

その結果

破門されてしまうのです。


儒学と『尊皇攘夷思想』


陽之助は

『意味が無い』

『無理だ』

『尊皇攘夷など無理だ』

そんな考えになったのではないでしょうか。


現実的で冷静な観察眼により周囲の時勢

例えば

日本を取り巻く国際情勢も

良く理解していたのではないでしょうか。

後の

カミソリ大臣こと

陸奥宗光という大政治家からの分析とも言えなくもないですが。


冷めた目で尊王攘夷運動を見ていたかもしれません。

この時期に

坂本龍馬や桂小五郎達と交友を持ったようです。


その中でも

尊皇攘夷運動を

一歩引いた目で見ていた志士

同じような考えを持っていたような志士

それが

坂本龍馬

だったのかもしれません。


二人は

勝海舟の神戸海軍操練所に入り

   共に学ぶ時間を過ごすのです。

この時の経験も

陽之助にとっては貴重な時間だったことでしょう。


そして

その後

海援隊の創設メンバーとして

龍馬と行動を共にするのです。


『刀を差さなくても 食っていけるのは俺と陸奥だけだ!!』


と龍馬は言っていたそうです。

龍馬は陸奥の能力を買っていたと同時に

『海援隊を任せても安心』と

心から信頼していたのでしょう。


海援隊の若き二人は

この頃

目標を掲げ

その目標に向かって

一生懸命突き進んでいたのでしょう。


  それは

   自分達の持つ

     熱き情熱と若い可能性を

            謳歌するかのように



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2009年12月13日

鬼武者三代目 結城秀康(最終回)

越前を拝領しました

結城秀康




彼の像が

越前

福井城址に建っております。

その像は

馬に乗った甲冑姿の勇姿です。

この像を観るだけでも

彼が

どのようなイメージを持たれた武将であったかという事を

創造出来ます。



関ヶ原の戦い後

父・徳川家康は征夷大将軍に就任致します。

そして

江戸に幕府を開きました。


越前に領地を持った秀康は

この事をどのように想ったのでしょう?

家康は

越前の地から

武勇に優れた秀康に

上方や西国に睨みを聞かせようという狙いが

あったとは考えられないでしょうか?

それとも

出来るだけ

江戸から

離れた場所に置きたかったのでしょうか?



秀康は

豊臣秀吉の養子でありました。

そして

父・家康に冷遇されていたといわれていました。

もし

その説が本当ならば

秀康は

過去における父の待遇を

成長してからも忘れる事は無かったかもしれません。

『戦国の世』は

特に肉親といえども油断が出来なかった時代です。

更に

秀康は

秀吉の子・豊臣秀頼を

弟のように可愛がっていたという説もあります。


『もし幕府が大坂に攻め込んできたら秀頼を助ける』

                と言ったとか言わないとか。

『鬼武者』というゲームでは

秀康は幻魔になった秀吉に対抗するのですが。


実際

彼は豊臣家という存在がどのようなものだったのでしょう?

徳川が

『豊臣家を滅ぼす』とは想っていなかったのかもしれません。

そう想えたのは

 秀康が

   『伏見城番』を任されるからです。


『徳川と豊臣の橋渡し役』

自分の存在を

そのように位置づけたのではないでしょうか?

それは父・家康の思惑とは違ったかもしれませんが・・・


しかし

秀康は

体調を崩し越前に帰国します。


慶長十二年(一六〇七)三十四歳で此の世を去ります。


死因は梅毒という説があります。

不遇だった身を憂えて『女遊び』に耽っていたのでしょうか?


自分は

そうは想いません。


戦国時代が終わろうとしている時に

武勇に優れた秀康を最も警戒し

家康亡き後の

新たな火種になりかねないとでも

想ったのではないでしょうか?

同じ時期に

弟の松平忠吉(まつだいら ただよし)も

此の世を去っています。

あくまでも

創造の域ですが

秀康の死後

家康は着々と豊臣家を追い詰めて行ったように想えてなりません。

家康にとって

関ヶ原後の邪魔者が何人かいたと想います。

福島正則など。

その邪魔者の中に結城秀康も入っていたように感じます。

彼の死から八年後

慶長二十年(一六一五)豊臣家は滅亡します。



結城秀康

彼が生存していたら

『どのように動いたのでしょう?』

家康も

そんな想い

いや不安を抱いていたのかもしれません。


そして

家康は

三男・秀忠に後を託し

此の世を去っていきました。


秀康の死により

『本当の意味で天下泰平の世が築かれた』

それは

  この国にとっても

       徳川にとっても





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2009年11月23日

鬼武者三代目 結城秀康(第九回)

豊臣が織田から政権を奪取したように

今まさに

徳川が豊臣から政権を奪取しようとしています。

時代は遡れば

手法は違いますが

北条が源氏から政権を奪取する様子

足利家が北条

鎌倉幕府から政権を奪取した事も共通するものを感じます。

それは

『もともと臣下であった』

まさに『下克上』

   『臣下が主君から政権奪取する』
   
          というものでした。


それを調べ上げたら

キリがありませんね。

中国は

三国志の時代

曹家の魏から

司馬家が政権を奪取した事

もっと古くは

晋から

趙・魏・韓(三晋)と独立した国家が誕生した事


周王朝も殷から政権を奪取した政権でした。

本当にキリがないですね。


それは

今の世でも存在する

『政(まつりごと)』の一部だったのだと。


昔は

その政に

直接

命を懸けていたのでしょうね。

特に

戦国時代




その戦国時代に

事実上

ピリオドを打った戦い

『関ヶ原の戦い』

司馬遼太郎氏の小説にも書いてあったと想いますが

『日本が真っ二つになった』

そんな戦いでした。


『上杉討伐』


秀康は

豊臣家の為の行為だと信じていたのでしょうか?

この時

彼は二十六歳

血気盛んな時であります。

『己の力量を魅せつけたい』

父である

徳川家康に

魅せつけたかったかもしれません。

それ故に

表面的には

『豊臣家の為』を奉じて行動する父に従ったのではないでしょうか。


名門・上杉家に対して

自分の活躍を見てもらいたいと想っていたかもしれません。

しかし

上方の異変が届きます。


『石田三成の挙兵』


秀康はどのような想いで聞いていたでしょうか。


『三成と秀康』

二人は親交があり

三成から秀康に名刀が贈られたり

仲が良かったとも言われています。


後世

小説などで

直江兼続や真田昌幸は

『三成の挙兵』を知っていて

共に謀ったなんて書かれたものも読んだ事があります。

流石に

三成が結城秀康に手を廻す事は無かったと想われますが

もし三成が結城秀康と謀っていたら・・・


家康が小早川秀秋に接近したように・・・


『秀康と秀秋』

お互いに

家康の身内と秀吉の身内ではありますが

立場も環境も違う二人でありますから

接近のしやすさも違うでしょう。

そもそも

家康は表面的とはいえ

豊臣家の為に動いています。


父・徳川家康

結城秀康に『上杉家の監視』を命じます。

『この地に残れ』

『この地で伊達、最上と連携して上杉の動きを抑えるのだ』

豊臣家に近いと家康の目に映り

秀康を警戒したでしょうか?



この命を秀康はどのような想いで受け止めたのでしょう?

秀康は渋々

この役目を受け入れたと言われます。


一方

別働隊として

弟の秀忠が大軍を率いて上方に向かいます。

これに対して

秀康は不満に想ったといわれています。




家康は先の事を考えていたのでしょうか?

『秀康に手柄を挙げさせては後々困る』

この時点で

自分の跡継ぎは

秀忠に決まっていたのかもしれません。


あるいは

ただ単に

 『上杉を抑える事が出来るのは
 

      武名の高い秀康でなくてはならない』


『自分の名代としては最適である』


そう想ったでしょうか?

結城家や徳川家も近くにあります。

最悪の場合でも

一門の秀康が江戸城に入城したら

『いざ江戸へ』ではありませんが

結城家はじめ関八州から応援も馳せ参じて来る。

そんな考えがあったかどうかは判りませんが。



『徳川家康』

彼の

一つ一つの行動に対して

いろいろなエピソードが出てきます。

それは

つまり

彼の人間としての

奥深さを意味するように想えます。

この時の

秀康に対する命令も

自分はいろいろと考えてしまいます。

そして

自分の知らないエピソードも沢山あるのでしょう。

結局

天下分け目の『関ヶ原の戦い』は一日で終わります。

大河ドラマでも出ていましたが

上杉家は家康の軍勢を追いませんでした。

秀康が監視した上杉家は

秀康ではなく

国境を接する最上や伊達と戦います。



戦らしい戦をしたのだろうか?

結城秀康にとって

『関ヶ原の戦い』は何だったのでしょう?

彼はどのような想いだったのだろう?


ちなみに

この戦いの後

結城十万石から

大幅加増で

越前に六十七万石の領地を与えられました。

また

関ヶ原の戦いで

初陣を飾り功を挙げた

弟の松平忠吉(まつだいらただよし)は

尾張に五十二万石

関ヶ原以前の石高は十万石もなかったそうです。


自分は考えてしまいます。

この六十七万石は

一体

何だったのだろうか?

家康は

関ヶ原の戦いに勝利した事で

『天下は徳川のもの』という暗示を

示したかったのではないか?と。

そして

『お前は徳川家康の跡継ぎではないぞ』

家康の秀康に対する意思表示であったのではないでしょうか。


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2009年11月11日

鬼武者三代目 結城秀康(第八回)

慶長三年(一五九八)

戦国の世を駆け抜けた

稀代の英雄

太閤・豊臣秀吉が此の世を去りました。


『秀吉無き豊臣家』



皆様御存知だと想われますが

その基盤は揺らいでしまいます。


秀吉の忘れ形見

『豊臣秀頼』を支えるべき

五大老・五奉行の体制も

その機能は働いていたのでしょうか?


ドラマなどでは

家康のやりたい放題が取り上げられますが

実際は

徳川家康と前田利家の

『二巨頭体制』により

政務は運営されていたのでしょう。

家康にとって

利家の存在は無視できるものでは無かったようです。

しかし

それでも

家康の勝手な行動は止められませんでした。


そして

二人を中心に

対立することになりますが

お互い

不利だと考え和解します。


『前田利家』

彼は秀頼の秀頼の傅役(もりやく)として

秀頼を大坂城内で支えます。




『徳川家康』

結城秀康の実父は

伏見城に入っていました。

さて

この頃

秀康はどのような動きをしていたのでしょう?


一説によりますと

彼は秀頼を弟のように可愛がっていたといわれています。

後に

『徳川幕府が豊臣家を攻めたら、自分は大坂城に入る』と言ったとか。

徳川一門でありながら

豊臣恩顧の武将として

豊臣支持の姿勢を取っていたという説もあります。


これらの説が本当ならば

秀康が父・家康を相当嫌っていたのでしょう。

その反動が親豊臣の武将になったのかもしれません。


慶長四年(一五九九)

前田利家が秀吉の後を追うように此の世を去ります。

もしかしたら

『暗殺なのではないでしょうか?』なんて想ったりもします。

一番力のある邪魔者であった利家公


利家の亡き後

石田三成が

福島正則など彼に反感を持つ武将達に襲われます。

その難は

徳川家康の力により逃れます。

それと同時に

徳川家康により隠居させられます。

個人的に

『利家の死と三成の襲撃』

家康の謀略ではないかと感じます。

三成の件は家康が正則など

反三成派の武闘派をけしかけた

などという説も聞いた事があります。

家康は

『三成の卓越した政治手腕を恐れていたのではないか』

と想います。

増田長盛(ました ながもり)や長束正家(なつか まさいえ)

など優れた能史は秀吉の家臣には存在しましたが


やはり

石田三成は群を抜いていたのではないでしょうか。

堺屋太一氏の著書『巨いなる企て』を読むと

そんなふうに感じます。


二人を除けば

『豊臣家は、まとまらない』

そう考えたのでしょう。

家康は・・・



豊臣一門として名を連ねる

『小早川秀秋』

『宇喜多秀家』

外様の

『毛利輝元』

『上杉景勝』



 家康は

    『自分の敵ではない』


  そう感じていたかもしれません。


   『もはや恐るる敵はいなくなった』 



慶長五年(一六〇〇)

家康に従わない

上杉景勝の討伐を起こします。

その行動の名目は

『豊臣家の為』

     『秀頼の為』


結城秀康も家康に従い

行動を供にします。

『上杉討伐』


御存知

『関ヶ原の戦い』の前哨戦であります。

二十六歳の血気盛んな秀康

どのような想いで

『上杉討伐』に参陣したのでしょう?

己の力を試したくて仕方が無かったかもしれませんね。




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2009年10月12日

鬼武者三代目 結城秀康(第七回)

結城秀康(ゆうきひでやす)

徳川家康の次男として誕生し

その後

豊臣秀吉の養子となり

そして

天正十八年(一五九〇) 

関東の名族

結城家の養子となりました。

『養子』

当時としては珍しくない

     この『養子』という制度


戦国の世を生き抜くためには

必要な制度だったことでしょう。

いや

戦国だけでなく

昭和の世まで

御家を存続する為に必要だったようです。

ちなみに

昭和の大政治家・吉田茂も養子です。


大河ドラマ『天地人』に登場しました

『上杉景虎(かげとら)』

彼は名将・北条氏康(うじやす)の七男として誕生しました。

彼も人質として

武田家、上杉家と赴きました。


武田家と今川家との

『三国同盟』が成立すると

武田家に人質として入り


武田家との同盟が破れると

北条家に戻り

大叔父・北条幻庵(げんあん)の養子となりました。

北条家の一族として生きていく予定だったはずです。

『北条幻庵』

⇒北条家の祖・北条早雲の三男です。

 彼は北条五代に仕え

 享年九十七歳で此の世を去ったと言われています。


しかし

彼の運命も

波乱万丈でした。


その後

北条氏康が上杉謙信と同盟を結ぶと

上杉家に人質に出されます。

そこで

謙信が人質ではなく

養子として

自分の名乗っていた景虎を与えました。

その謙信の厚意には感謝したことでしょう。

しかし

謙信死後の運命は皆様御存知ですよね。



秀吉も

そういう例から学んだのかもしれません。


『人質の心を掴む』


秀康は

『天下の豊臣家に人質』という意識は

あまり無く

養子として

秀吉の許でノビノビ暮らしたように想います。

また

天下の政治を目の当たりにしたのでしょう。

秀康の人生において

豊臣家での生活は貴重なものだったと想います。

石田三成とも仲が良かったという説もあります。

また

関東の名族とはいえ

結城家は

戦国の世においては小大名。

不満を持っていたでしょうか?

ただ

小大名といっても

石高は十万石ですから

十六歳の秀康には

破格といってもいいと想うのですけど

その心情は如何なるものだったのでしょう。


秀康は結城家において

どのような生活をしたのでしょう。

また

どのような統治をしたのでしょう。

徳川家と隣接する地に領地を持つ

結城家

徳川の影響も大きかった事でしょう。

養父の晴朝は隠居していたようですけど

秀康との関係はどんな感じだったのでしょう。


晴朝(はるとも)は御家の為に

  秀吉の養子であり

  家康の実子である

   秀康に結城家を託したのですから

   秀康を大切に想った事でしょう。


  温かく見守っていたのだと想います。


この結城家でも

ノビノビと育てられたのではないでしょうか。

そんな環境において育てられたおかげで

後の豪快磊落な武将になったように感じます。




彼は秀吉の養子になった時に

『羽柴姓』を与えられていました。

更に

『左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)』

を与えられていましたので

『結城少将』と呼ばれていました。


秀吉は

秀康を厚遇したようです。

家康の子ですから

当然

気も使った事でしょう。

後に

秀康は

『実父・家康よりも養父・秀吉に恩義を感じていた』

なんて説もあるようです。


その秀吉が

慶長三年(一五九八)此の世を去ります。

秀康は

この偉大な養父の死をどのように受け止めたのでしょう。



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2009年09月20日

鬼武者三代目 結城秀康(第六回)

戦国時代

関東の覇者として

その武勇を大きく轟かせ

戦国の扉を開いたとも言われる

『北条早雲』

   を祖に持つ

        北条氏
  

鎌倉時代の北条氏と区別する為に

後世において

後北条氏とも言われてます


その北条氏も

秀吉の手により滅ぼされてしまいます。

毛利や上杉

徳川が

秀吉に従ったように

北条も秀吉に従っていたら

また違った豊臣政権になっていたのでしょうね。


果たして

関東に徳川が移封されていたでしょうか?

そんな事も考えてしまいます。


この時

秀康は

『己のやるべき事をやろう』

      と必死だった事でしょう。

その必死な精進が実り

九州において功を挙げたりします。


見事な若武者となり挑んだ


『小田原征伐』


秀康にとっては

自分の運命を変えた出来事になりました。


小田原征伐後

 恐らく

   様々な動きがあったのでしょう。

      それは武将達の様々な思惑と共に


そんな武将達の中に

関東の小大名がおりました。

藤原秀郷の末裔で

鎌倉以来の関東を代表する名門一族

室町時代においては

関東の有力大名として

『関東八屋形(かんとうはちやかた)』と称された

                 名門と位置づけられます。


 結城家当主

    『結城晴朝(ゆうきはるとも)』


彼が秀吉に申し出るのです。

秀康を

『養子に頂きたい』


『秀康殿の見事な武者ぶりには感服致しております』

          とでも言ったかどうかは定かではありませんが。


秀吉もこの申し出を

快諾致します。


この『秀康養子の話』は

秀吉、晴朝

二人の

それぞれの思惑と

それぞれの駆引きがあったように想います。


『小田原征伐』の前年


秀吉の子

『鶴松』が誕生します。


それ故に

秀吉にとって

この申し出は願ったり叶ったりだった事でしょう。


『跡継ぎが誕生した』


もしかすると

秀吉が根回しして

結城家の養子になるように工作したのかもしれません。


ただ

晴朝にとっても

この話は是非

決めておきたかった事でしょう。

『結城晴朝』という武将も関東の地で苦労したのでしょう。

北条氏、上杉氏、佐竹氏、葦名氏等の

強敵の中を生き抜いていきました。


したたかな考えを身に付けていったように想います。


晴朝には元々、

朝勝(ともかつ)という跡継ぎがいました。

朝勝は

常陸源氏佐竹氏の血を引く人物で

彼も養子として迎えられました。

晴朝が朝勝を養子にした経緯も

関東の動乱の中で生き抜くための布石だったのでしょう。



しかし

『小田原征伐』以後

晴朝の動きは早かった事でしょう。

朝勝を廃嫡します。

それは

秀康を跡継ぎとして養子に迎えるためだったようです。


『何故か?』


秀吉が

徳川家康を関東に移封します。

それ故に

晴朝は秀康を養子にする事で

領地を接する事になる

実力者・家康とも懇意にしたいと考えたのでしょう。


晴朝にとって

『秀康を養子に貰う事』は

秀吉に恩を売る事にもなり

家康とも昵懇(じっこん)になれる

     という事であったのだと想います。


晴朝が堅物な武将だったら

佐竹氏との義理にこだわり

朝勝を跡継ぎとしていたでしょう。

ただ

二人を養子として

残す事は出来なかったでしょう。


晴朝は生き残りの為に

柔軟な対応をしたのだと想います。


『苦渋の選択』


その選択は

小早川隆景が

秀吉の養子・秀秋を

小早川家の養子に迎えた時と重なる気がします。


また

その選択は

結城家が

関東から天下へと

活躍する舞台を移した瞬間だったのかもしれません。

 今となっては歴史の舞台と言ってもいいでしょうか。


結城家は室町時代に一度滅亡の憂き目にあっています。


『結城合戦(ゆうきがっせん)』

 ⇒結城一族が足利幕府六代将軍の義教に対して起こした反乱

結局

幕府と戦い滅亡します。

その後

再興を許され戦国時代にも存在してました。


後世

滝沢馬琴により著された

『南総里見八犬伝』も

この合戦が物語に影響しているのです。

そんな

『結城合戦』など一族が辿った歴史は

結城晴朝の胸中に

しっかりと刻まれていたのでしょう。




いろいろな思惑や駆引きの中で


  『結城秀康』


     が誕生いたしました。


天正18年(一五九〇)

秀康、十六歳の血気盛んな時でした。



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天下の旗に叛いて (新潮文庫)

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