2007年12月31日

太宗 李世民















物騒な世の為に正義は戦う武器 登場! えっ・・い。
武将・織田信長愛用「鉄扇」完全復刻! 懐からサッと 取り出し、「バ..







中国史上最高の名君 李世民について書きたいと想います。

唐の太宗 李世民が治めた時代、この時代を貞観の治と言われている

のである。中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ後世、理想

の時代とされた。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、魏徴

を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤

めた。賦役や刑罰の軽減、地方の統治を三省六部制の整備を行い、そ

して、軍事面においても唐建国前に武将として優れた才能を発揮し、

隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的な役割を果たした太宗

である。そんな太宗が兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を

与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋王朝

末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まりま

した。房玄齢・杜如誨・魏徴という名臣が国政を支えたのである。

そのやり取りが『貞観政要』として後世に伝わっている。

太宗が「王朝を作るのと、それを守るのとどちらが難しいか」と問わ

れたときの問答が有名である。房玄齢はこれに対して、「天下が乱れ

群雄が競い合う。それを攻め破って降し、戦いに勝たねばならない。

それ故に王朝の草創が難しい」と答え、魏徴は守る方が難しいと答え

た逸話が有名である。この言葉は今の社会でも通じる問答ではないだ

ろうか?「会社を創るのと、それを守るのとどちらが難しいか?」

その時、太宗はどう答えただろうか?確か、守成つまり守る方が難し

いと答えたと想う。その時は、これから組織を守っていかなければな

らないという心境だったのかもしれない。現実には、どちらも難しい

事であると想う。今の自分に立場を置き換えると王朝の草創の方が難

しい。つまり、「会社を創る事の方が難しい」と答えます。

日本でも、北条政子、徳川家康や明治天皇に影響を与えていると言わ

れている。文化的にもいろいろな時代の正史を編纂させたり、

西遊記』で有名な玄奘三蔵がインドより仏経典を持ち帰り、その支

援をしたのである。また、「泥棒がいなくなり、家の戸締りをしなく

てもよく、旅先で食料をもらえる為、旅人は食料を持たずに旅が出来

た。」と言われている。こんな時代があったのである。

こんな政治が存在したのである。人望もあったようで有能な人物が集

まったようである。

彼の闇の面としては、玄武門の変といわれる出来事であろう。

兄の李建成や弟の元吉をクーデターで殺害して皇帝に即位したのであ

る。また高句麗への2度の遠征に失敗している。

晩年は少し、おかしくなったようで、後継者の育成も失敗してしまっ

たのである。聖人のようであるが人間らしいと言えば人間らしい一面

も持っていたのかもしれない。そのせいで、則天武后が出てくる要因

を創ってしまったのである。洒落にならなかっただろう。

私も、もう一度『貞観政要』を読んで学んでみたいと想います。
posted by よしの at 19:45| 千葉 ????| Comment(2) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月30日

傾奇者 前田慶次郎利益





















物騒な世の為に正義は戦う武器 登場! えっ・・い。
武将・織田信長愛用「鉄扇」完全復刻! 懐からサッと 取り出し、「バ..






漫画『花の慶次』小説『一夢庵風流記』という作品があります。

原作は隆慶一郎氏のものである。この作品のせいで前田慶次郎の知名

度と評価に大きな影響を与えたように想います。前田利家の義理の甥

であり、武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武両道の将だったが、豪

快で奇怪な行動をする傾奇者(かぶきもの)として振舞っていたらし

い。だから、前田慶次といえば傾奇者(かぶきもの)というイメージ

が定着している。上記の作品には、誰にも縛られずに自由気ままに行

動したように書かれている。そのイメージが大きい。

実父は滝川一益の一族で滝川益重と言われているが事実は定かではな

いようである。

その後、実母が前田利久と再婚して、その養子になったと言われてい

る。前田家は本来ならば、長男である利久が継ぐはずであったと想う

が織田信長の命により、弟の利家が後を継ぐことになった。

その結果、利久は隠居したのである。

そして、慶次は利家に仕えるのである。その後、利久が死去すると、

利家と仲違いして出奔するのである。

このとき、利家をだまして水風呂に入れ、名馬『松風』を奪って出奔

したという逸話が残っているのである。その後、運命の出会いがあ

る。直江兼続との出会いである。小説では、直江兼続に惚れこみ死ぬ

まで上杉家の世話になるのである。

ずば抜けた武力と豪快な精神などを表す資料は特にないそうである。

隆慶一郎氏の作品の影響で前田慶次像が出来上がってしまっているよ

うである。以前、米沢の林泉寺に行った時のことでしたが、直江兼続

の菩提寺として直江夫妻の墓がありましたが、そこに前田慶次の墓参

りに来たというカップルがいましたが、墓がどこにあるかは不明だそ

うです。傾奇者として権力に屈しない男気を持ち、風流を愛して戦国

の世を自由に生きた男、前田慶次のイメージである。

『前田慶次道中日記』などを残している。京都から米沢に着くまでの

道中日記である。和歌や俳句なども書かれているとのことである。

教養が高く風流を愛する武将だったのだろう。

晩年、一夢庵ひょっとこ斉だったでしょうか、そんな感じの号だった

と想います。自由に面白おかしく生きたのだろうか?本当はどんな武

将だったのだろうか?『前田慶次』その名前を聞くだけで豪快な男の

イメージが、しばらく消えない事だろう。そして、その生き方に憧れ

るのである。それは、それでいいのかもしれない。
posted by よしの at 21:49| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月29日

人斬り 岡田以蔵



















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幕末4大人斬りの一人として挙げられる岡田以蔵について、想う事を

書きたいと想います。

昔、テレビドラマで竹中直人氏が演じた岡田以蔵の、その迫力のある

演義が凄く印象に残っています。

彼は土佐勤皇党の一員としてリーダーの武市半平太に師事し、その元

で活躍するのである。暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出

ている。武市が教養の無い以蔵を『暗殺の道具』のように使っていた

ように想えてならない。というか、そういう説があるのである。

10件くらいの暗殺事件に加わっている。いろいろな説もあり、謎も

多いのである。

勝海舟の護衛をした時、3人の暗殺者が襲ってきたが以蔵が1人を斬り

捨て一喝すると残りの2人は逃亡した。

その際、勝が「君は簡単に人を殺してはいけない。そのような挙動は

改めた方がいい」と諭したが、以蔵は「先生exclamationそれでも私が居

なかったら、先生の首は既に飛んでいましたよexclamation」と返した。

流石に勝も返す言葉が無かったらしく、「これにはおれも一言もなか

つたよ」と『氷川清話』で書いている。

中浜万次郎の護衛もして、彼を救った事もある。岡田以蔵とは、ただ

の人斬りではなく、決して好んで殺人を楽しんでいたわけではないの

であろう。

晩年、武市から冷遇されるが、剣術こそ強いが確固たる思想・信念を

持たぬ者”として軽蔑されていたとも言われていた様である。

映画ドラマでは寡黙で不気味な存在として演じられていることが多

く、そこに坂本龍馬が絡んできたりするのである。

坂本龍馬は以蔵をどう想っていたのだろうか?中岡慎太郎はどう想っ

ていたのだろうか?そもそも、勝海舟の護衛に付けたのは龍馬である

し、剣術の腕は信頼していただろうし、自分の師を任せる訳だから、

ある程度いい印象を持っていたのではないだろうか。仲良くしていた

のではないだろうか。

ドラマや小説などで登場する岡田以蔵は、可哀想過ぎる印象がありま

す。彼には彼なりの信念を持っていたと想うし、日本の国を憂う心も

持っていたはずである。土佐藩では吉田東洋暗殺・京都における一連

の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、

武市半平太を除いて厳しい拷問を受けた。以蔵も過酷な拷問に耐えた

が、遂に全てを白状し、打ち首、晒し首となった。

どんな想いで白状し、打ち首になったのだろうか。

想像するだけで悲しさがこみ上げてくる?????[???i???j

辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべ

き」。岡田以蔵に取って、君とは誰だったのだろうか。天皇だったの

だろうか?龍馬か?それとも・・・。
posted by よしの at 14:25| 千葉 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

賢人 小早川隆景



















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小早川隆景は中国地方の覇者毛利元就の三男として出生する。

長男の隆元・次男の吉川元春や他にもたくさん兄弟姉妹がいたが、こ

の中で一番の知恵者として有名である。毛利家どころか日本において

も指折りの知恵者である。豊臣政権の五大老として陪臣の身でありな

がら就任するのであるexclamation

『頭脳明晰で、判断に間違いがないexclamation』と評されていたらし

い。そして、その能力に豊臣秀吉も惚れこみ、直江兼続と共に秀吉の

お気に入りであったのだろう。

秀吉が言ったかどうか判らないが『この世において政治が出来るの

は、直江兼続と小早川隆景である』と言われた。

また、秀吉に日本の東は徳川家康に、西は小早川隆景に任せれば安泰

であると言っていたらしい。また、秀吉は『天下を治めることが出来

るのは黒田如水と隆景だけである。』とそれはもう、評価が高いもの

である。それくらい優れた能力を持っていたのであろう。

その判断力は本能寺の変が起きて織田信長が死去すると、秀吉は明智

光秀討伐のため、京へ兵を向ける必要があった。秀吉は信長の死を隠

して毛利家の所領の仕置きをして和睦を結び、中国大返しをするので

ある。その後、信長の死を知り秀吉を追撃するべきとする吉川元春・

元長父子に対し、隆景は「誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義

であり、信長の死に乗ずるのは不祥である」と主張したため、毛利軍

が秀吉を追撃することは無かった。秀吉はその隆景の好意に感謝した

ことだろう。その毛利家の動きによっては秀吉の運命もどうなってい

たか判らなかったことだろう。それ故に毛利家及び隆景を厚遇し、信

頼した。だが、しかし秀吉の策謀として、秀吉の甥である秀秋を毛利

家に養子に出そうとした。しかし、隆景は秀吉の真意を見抜き、毛利

の後継者に他家からの養子を受け入れることに抵抗を覚え、隆景は秀

吉に秀秋を『小早川家』の養子にしたい旨を懇願し、これを認めさせ

た。ここに、小早川秀秋が誕生するのである。

後の関ヶ原の戦いでは裏切りを演じ、そして秀秋の早世により小早川

家は断絶してしまう。

もし、毛利家の養子になっていたら毛利家はどうなっていただろう

か。隆景の深謀遠慮のために毛利家は残ったのかもしれない。

その家が明治維新の中心となり、徳川幕府を滅ぼすのである。

また、同じく知恵者の軍師黒田如水と仲が良かったらしく如水に対し

「貴殿は頭が良すぎ、物事を即断即決してしまうことから、後悔する

ことも多いだろう。それに比べ私は、貴殿ほどの切れ者ではないか

ら、十分に時間をかけたうえで判断するから、後で後悔することが少

ない。」と指摘したという。また、如水は隆景の死去を知ったとき

「これで日本に賢人はいなくなった。」と嘆いたと言う。

いろいろな書物を読むが、隆景の評価は凄く高い。『隆景のある限

り、毛利の政道は乱れまい』『治世撫民の跡深くして、愛和をもっぱ

らとする仁将』戦においては『常に危うき戦いを慎み、謀をもって屈

せしむる手段を旨とす』と父である元就譲りの知略を発揮したようで

ある。彼の肖像画を見ても、とても温和で暖かな印象を感じる。

しかし、甥の輝元には厳しかったらしい。

死際に輝元に『分をわきまえ野心を抱いてはならぬ』と遺言した。

しかし、輝元は西軍の総大将に祭り上げられ、敗戦の後に大減封の憂

き目に会ってしまう。これも隆景の心配した予言の一つだったのかも

しれない。隆景はあの世で甥の行動をどのように想っていただろう

か。
posted by よしの at 22:53| 千葉 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月27日

孟嘗君





















物騒な世の為に正義は戦う武器 登場! えっ・・い。
武将・織田信長愛用「鉄扇」完全復刻! 懐からサッと 取り出し、「バ..



今日は、中国の春秋戦国時代の戦国四君の一人である孟嘗君について

書きたいと想います。宮城谷昌光氏が『孟嘗君』という作品を著して

いる。斉の王族の一人で田文という名である。

5月5日に生まれた田文は当時の迷信で『5月5日に生まれた子は親

を殺す』というものであった。

そして、父親である田嬰は田文を殺そうとしたが、母親が密かに匿い

育てたと言われている。その後、許されて田嬰と住むようになる。

初めのうちは冷遇されていたが、田文の聡明さが明らかになり、屋敷

に滞在する食客の世話をする。そうすると客の間での田文の評判が非

常に高くなり、やがてそれが諸侯の間にまで知れ渡ったので、田嬰は

田文を跡継ぎに立てる事にした。

立派な人格者に育ったのであろう。人を惹き付ける性格であったのか

もしれない。

そんな生い立ちで成長した人間が後の、孟嘗君であるexclamation?~2

こんなエピソードがある。積極的に食客を迎え入れ、その数は数千を

超えたらしいexclamation。ある時、田文が食事の時に食客との間に衝立

を置いたところ、食客の一人が「自分と客の料理に差をつけているか

ら隠すのだろう」と言い立てた。これを聞いた田文はその客に料理が

まったく同じだと言う事を示し、疑った事を恥じた客は自刎して果て

た。そして、孟嘗君の名を有名にした出来事が鶏鳴狗盗(けいめいく

とう)であるだろうexclamation。それは、秦の昭襄王が田文を宰相とし

て招いた。そして、田文がそれに答え秦に赴いたが昭襄王が部下の諫

言を受け入れて心変わりして、田文の滞在する屋敷を包囲させた。

そんな時に活躍したのが食客達である。彼は昭襄王の寵姫に命乞いを

したが、寵姫は田文の持つ宝物である“狐白裘”(狐の腋の白い毛だ

けを集めて作った衣?u?e?B?b?Nの事で非常に高価なもの)と引き替えな

ら、昭襄王に助命を頼んでも良いと答えたexclamation

しかし、昭襄王にそれを献上していたのである。

その時、食客の一人狗盗(泥棒)??が、これを盗み出してきた

のである。これを寵姫に渡し、その取り成しによって田文はひとまず

危機を逃れた。そして、夜中に急いで逃げたのである。

しかし、国境の関は朝になって鳥の声がするまでは開けないのが規則

であった。やはり、昭襄王は追っ手を差し向けてきていた。

危機は迫る中、食客の一人鶏鳴が鶏の鳴き真似をすると、つられて他

の鶏が鳴き始め関の門が開かれたのであるexclamation?~2

こうして、危機を脱したのである。田文の人使いの上手さと必ず、役

に立つ時があると人を評価した先見の明を物語る逸話である。

そして、母国の斉に帰ってきて、宰相に就き韓と魏の軍と連合して秦

を討つのである。そして、政治の場でも国力を富ませ、大活躍するの

であるexclamation&question。王が田文の名声や実力を疎ましく想い、猜疑心を

抱いたことから、自ら隠棲する事にした??

孟嘗君が秦から斉に帰る途中に趙の村に立ち寄ったとき、村人に背の

低いことを馬鹿にされ、これに怒って食客と共に村人を皆殺しにした

と言われている。本当だろうか。人を惹きつける魅力、これは彼の生

まれ持ったものと幼少期の苦労した時代に培ったものだと想います。

馬鹿にされたくらいで、そのような軽挙に出るとは想えない。

宮城谷氏の小説を読んだが、詳しい内容は忘れてしまった。

どんな人間だっただろうか?。

だけど、素晴らしい人であった事は間違いないのであるexclamation
posted by よしの at 22:09| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(2) | 春秋戦国(中国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月26日

関東一の名将 北条氏康

















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北条氏康ほど、邪魔な存在はいなかったのではないのだろうか。

天下の堅城『小田原城』を背景に関東に覇を唱えていき、領土を広げ

ていくのである。相模の虎または相模の獅子といわれる所以である。

三大奇襲の一つと言われる河越野戦では北条に敵対する山内・扇谷の

両上杉と足利晴氏の8万の大軍勢が北条領に侵攻してきた。

北条の直八幡といわれる猛将北条綱成が守っていた河越城を囲んだの

である。それに対する北条の軍勢は8千から1万と言われている。

10倍近くの敵に対して圧倒的に不利であった。

北条は敵に『偽りの降伏を申し出た。』それを信じた上杉勢や足利勢

は油断し、そこを見事に奇襲されたのである。

扇谷上杉朝定は戦死し、山内上杉憲政は居城の平井城を追われ、越後

の長尾景虎を頼ったのである。足利晴氏も下総に逃げたのである。北

条の大勝利であった。氏康が関東の覇者になった瞬間であった。

川中島の戦いや桶狭間の戦い、厳島の戦いなど有名な戦いがあるが、

それらの戦いに比べると河越野戦はそれほど有名ではない。

そして、北条氏康という名将自身が武田信玄や上杉謙信に比べるとや

や知名度が落ちる。軍事的には信玄や謙信に劣らないはずである。

さらに氏康の民政手腕は数多い戦国大名の中でも特に抜きん出て優秀

なものであったと高く評価されており、「民政手腕随一の戦国大名」

といわれているのである。それほどの武将がなぜ知名度がイマイチな

のだろうか?。その理由は何だろうか?。戦国の扉を開いた祖父早雲

の方が有名であるように想う。関東三国志や甲相駿の三国同盟などで

は必ず登場する重要人物である。武田信玄や上杉謙信に比べると派手

さは無いのは確かである。そして、肖像画を見ても、とても堅実そう

で温厚な面影がうかがえる。政治手腕や外交手腕は本当に見事なもの

であった。外交手腕としては、甲相駿同盟が示すとおり、それにより

関東の雄となるのである。政治手腕としても祖父早雲以来の善政を敷

くなどして、民に慕われるのである。勝海舟曰く、『家康が北条の善

政のせいで、関東の支配に苦労した』と『氷川清話』に記している。

氏康の大きな功績として、独自の官僚機構を創ったこととされてい

る。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などをおこ

なっていた。後の秀吉の小田原征伐による『小田原評定』の一因に繋

がったかもしれない。北条家の行政機構は全国で最も先進的なもので

あったといわれ、後の江戸幕府はこれを継承して経済を運用したと言

える。私は以前、大河ドラマで演じていた杉良太郎氏のイメージが物

凄く強いのであります。その格好良さから、どんな武将かと興味を持

ったのが始まりである。とんでもない名君でありました。

その北条家が息子と孫の代で消え去るとは夢にも想っていなかったと

想うがexclamation

『北条記』には『三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のう

ち数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家

法を発揚したので氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し大い

に北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわ

しい』と評価している。

そして、彼の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、そ

の死を惜しんだという。享年57歳であった。

天下への野心を持たず関東の領地と領民の平和の為に生きたように想

える。そして、それが北条家の分であると想っていたのではないだろ

うか。天下を狙うという事は北条家の分を超える考えであると想って

いたのだろう。

そして天下に逆らい、天下人の秀吉に滅ぼされてしまったのである。
posted by よしの at 22:54| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月25日

ドン・シメオン 黒田如水



















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ドン・シメオンとは黒田官兵衛孝高のキリスト教の洗礼名である。

彼のやる事なす事の全てに『何かあるのではないか?』と野心と共に

策が施されているのかと警戒されていたのではないだろうか。

晩年などは特に警戒されていたのではないだろうか。

竹中半兵衛亡き後、豊臣秀吉が最も信頼するべき、そして頼りにする

人間になるはずだったと想う。

本当は、そのようになるべき存在だったと想う。

しかし、その切れ過ぎる智謀と野心家的性格のせいで最も恐れたと共

に心を許せなかった存在となってしまったのである。

そのせいで、弟の豊臣秀長や千利休を信頼し、頼りにしたのではない

だろうか。正確に言うと、秀長を信じ、利休を頼りにしたのではない

だろうか。本来ならば官兵衛の役目だったはずだ。後に、秀長と利休

を失っても官兵衛を頼りにすることもなく、逆に警戒する事となるの

である。有名なエピソードでは、秀吉が『自分に代わって天下を取る

のは徳川家康でも、前田利家でもなく官兵衛である』『奴がその気に

なれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう』『奴の力量なら

ば、百万石を与えたとたんに天下を取るだろう』などと言っていたと

いう。秀吉の本心かどうかは判らないが、官兵衛の野心家的性格には

本当に警戒していたのだと想う。

それと同時に官兵衛を側に置けなかった事への淋しさを皮肉ったのか

もしれない。秀吉の家臣になり調略や交渉をしたり、戦に関しては中

国大返し後の明智光秀との決戦や賤ヶ岳の戦い、四国征伐、九州征伐

でも活躍し、小田原征伐では小田原城を無血開城させるなどしている

のである。たくさんの功績を立てているにも関わらず、遠く九州中津

に12万石くらいの領地を与えられるのである。

彼の功績に対して、その野心と不気味さが少ない論功行賞になってし

まったように言われているのである。本当にそうだったろうか?彼

は、いろいろな事を考えていたと想います。

キリシタンになり洗礼名ドン・シメオンは、貿易などのために海外と

の繋がりを意識したのかもしれない。ただ秀吉が禁教令を出すと、す

ぐに棄教したのである。決断力も物凄いものであり、それは頭の回転

の速さが凄かったと想う。周りの人間が馬鹿に見えたかもしれない。

現在でも、そういう感じの人いますよね。そして、後に隠居し出家し

て如水と号するのである。その後、秀吉が死に、徳川家康と石田三成

の間で関ヶ原の戦いが起こる。それに乗じて天下を狙ったと言われて

いる。本当にそうだったのだろうか?東軍に属し、大友軍を破るなど

勢力を拡大させていくが私はただ単に、家康や三成に自分の実力を示

したかっただけではないかと想っています。

秀吉に対しても、そうだったように家康との駆け引きを楽しんだので

はないだろうか。

そして、家康の天下を読みきっていたと想います。

『関ヶ原の戦いが一日で終わったことが如水の誤算だった』と言われ

ているが一日で終わるとは想わなかったかもしれないが、早期に終わ

ると想っていたはずである。それだけ、家康を評価していたし、武人

としての三成を評価していなかったはずである。

彼ほどの人物である。人物眼は並みのものではなかったはずである。

私の結論として彼は天下を狙っている振りをしていただけで、実際は

天下への野心は無かったのだと想う。彼の遺訓は『人に媚びず、富貴

を望まず』であったらしい。そして、生き様は『水の如く』生きたの

かもしれない。
posted by よしの at 23:36| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

友情に生きた聖将 大谷吉継





















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テレビだったか、『歴史街道』か何かで大谷吉継は豊臣秀吉の隠し子

という説を聞いたことがあります。真偽はともかく秀吉の小姓となり

薫陶を受けた武将であったと想う。朝鮮出兵などで兵站業務を担当し

て優れた手腕を発揮したことから秀吉は「吉継に100万の兵を与えて、

自由に指揮させてみたい」と語ったと言ったらしい。

智勇兼備の武将であった。関ヶ原の戦いに参加した武将の中で東軍の

武将よりも西軍の武将である島左近や真田幸村などと共に、今現在で

も人気があります。私も大好きな武将の一人であります。

そして上杉討伐の為に起ち上がった徳川家康と共に吉継自身が軍勢を

率いて討伐に向かおうとしていた。元々、家康とも懇意にしていたと

言われている。

しかし、その途中で親友の石田三成の居城である佐和山城に赴き家康

仲直りをさせようとしたのだが、そこで打ち明けられるのである。

『三成の野望』を?????`?i???_???????j。家康に対する挙兵である。

これに対して、吉継は無謀だとして強く止めたのであるが、それでも

三成の心は変わらなかった。そこで、吉継は決心したのである。

『親友である三成の為に負ける戦と想いながらも自分は味方する』と

いうことを決心したのである。

有名なエピソードがありますよね。ある時開かれた茶会において、招

かれた武将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲

みを行う。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、病気の感染

を恐れて飲むふりをするだけであったが三成だけ、その茶を飲み気軽

に話しかけてきた。(一説には吉継が飲む際に顔から膿または鼻水が

茶碗に落ちたが、三成はその茶を飲み干したとされる)その事に感激

した吉継は、『この男の為に死のう』と決めたとも言われている。

まさに、刎頚の友になった瞬間だったかもしれない。

大谷吉継の生き方を想うと熱いものがこみ上げてきます。

関ヶ原の戦いでは最後まで戦い、小早川秀秋や脇坂安治の軍勢を一身

に受けるようにして応戦するが、大谷軍は瓦解するのである。

そして自害するのである。自害した吉継の首は側近の湯浅五助の手に

より関ヶ原の地中深くに埋められたため、東軍側に発見されることは

なかった。(その時の湯浅五助のエピソードも感動であるが、この場

では控えさせていただきます。)享年42歳であった。

彼の生涯は三成と共に豊臣家に殉じた生涯だったのでしょう。

辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はあ

りとも」意味は良く判りませんが、死を覚悟していた吉継が三成と共

にあの世へ参ろう。そして、あの世でもその友情は変わらない。とい

う心境だったのかもしれない。
posted by よしの at 16:04| 千葉