2008年01月31日

柴田勝家の魅力

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賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にて信長の妹であるお市の方

とともに自害して果てた。享年六十二歳であった。

辞世の句は『夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 

山ほととぎす』

絶世の美女・お市の方の最後でもあった。

興味深いのは、昭和三年十一月十日、宮内省より贈従三位に叙位され

たことである。何故、昭和の御世になり勝家公に官位が授けられたの

であろうか。この辺の事が私には気になる。

柴田勝家は剛の者であり、『鬼柴田、掛かれ柴田』と呼ばれたくらい

の武将であり、信長も古参の武将の中でも最も信頼した武将であった

に違いない。そして、その信長の期待に充分に応えていったのだろ

う。その勝家が北陸平定の方面軍総司令長官として北陸の領地を与え

られ、軍神・上杉謙信とも戦っている。

その謙信は柴田勝家の上を行く存在として衝撃を受けた事だろう。

その時、秀吉とも意見の衝突をして、途中で秀吉が帰陣してしまう。

お互い仲が悪かったとの説もあるが、ドラマなどでは勝家など重臣達

が秀吉を軽蔑している設定や話が良くあるが本当にそうだったのだろ

うか。人情に厚く、人望もあったといわれる。

むしろ、秀吉よりも人望があったという評価もあるのである。

また、秀吉の羽柴は丹羽長秀の『羽』と柴田勝家の『柴』を両将から

拝領しているのである。

本当は秀吉のような軽輩にも気遣いをするような優しい男ではなかっ

たのかもしれない。

もう一つのエピソードとして『刀ざらえ』という政策を行っている。

これは、勝家の領地の一向宗徒から刀などの武具を没収し、

それを農具に作り変えて民衆に分け与えたという。

そして、余った鉄は舟橋にして九頭竜川に橋を架けたのである。

その結果、領内からは一揆が起こらなくなった。

これが、後の秀吉が行った『刀狩り』の前例である。

柴田勝家は、その秀吉により滅ぼされるが、その生き方は信長と言う

絶対的な存在の元に生き、その人生を任せたが信長の死後は、

その運命を天に任せたように感じる。

本当は、自分の領国でお市の方とのんびりと暮らしたかったのではな

いだろうか。人生五十年と言われた時代に六十歳を過ぎても生きてい

たのだから。

そして、若い時の猛将としての勢いや気力も衰えてきていただろう。

ただ、織田家の天下にならない事を悟った為に、信長の恩義に報いる

為にも立ち上がらざる負えなかったのかも知れない。

そして、秀吉との戦になる。その戦い方は『掛かれ柴田』の戦い方で

はなかったことが良く判る。

佐久間盛政の暴走より、それがきっかけとなり完膚なきまでに負けて

しまった。

時代の勢いに乗った秀吉に戦略や駆引きで負けてしまったのである。

信長と織田家への忠誠心以外では秀吉に負けたのである。

織田家の為に、信長の為に殉死したような気持ちであったかもしれな

い。お市の方と共に・・・。
posted by よしの at 22:40| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月30日

瓶割り柴田 鬼の権六・柴田勝家 











 



















信長を支えた猛将として、その武勇を発揮し信長の天下取りに貢献し

た柴田勝家について書きたいと想います。

柴田勝家といえば、豪傑的イメージが強く、軽輩出身の羽柴秀吉を毛

嫌いし、(真偽は判らないが・・・)保守的な考えの強い武将として

織田家に重きを置いたように想っている。

彼は、信長の父・信秀の時代からの家臣であり信秀からも、その武勇

を愛された事だろう。

彼の性格は義理人情に厚く、情の深い人間であったと言われている。

その性格は信長亡き後の彼の戦に現れることになる。

やはり、信長がいなくなり自分が指揮官として戦を指揮する立場にな

ると本来持っていたであろう冷静な判断力を失い、情に流され誤った

判断をするようになってしまったのだろう。

それが、『賤ヶ岳の戦い』で想いっきり出てしまったと言える。

佐久間盛政の暴走を止める事ができず、そして、秀吉の味方になった

前田利家を責めもせず、恨みもしなかった。

いかに勇猛で戦に強い豪傑であっても義理人情に厚く情に優しい

柴田勝家という武将は組織のトップには向かなかったのだろうか?

だが、彼の領地での領国経営はとても上手くいっていたらしい。

戦乱で荒れ果てた国土を整備し、治水事業なども積極的に行い領土の

生産力を高めているのである。

また、年貢を軽減したり民衆に対して善政を敷き、名君として敬われ

たのだという。予想外である。

彼は、戦においての猛将であるだけではなく、

政務における治世の能力にも長けた武将であったのである。

しかし、その彼の持っていた能力は主君である織田信長の死と共に消

えていったように想える。

明日、もう少し柴田勝家について書きたいと想います。
posted by よしの at 21:22| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

日の本一の兵 真田幸村(最終回)











 









物騒な世の為に正義は戦う武器 登場! えっ・・い。
武将・織田信長愛用「鉄扇」完全復刻! 懐からサッと 取り出し、「バ..










『幸村』という名前であるが、彼の書状で『幸村』の名が使われてい

る書状は一切存在しないと言う。

1回目で江戸時代の軍記物語などで書かれていた影響の為にいつしか

『幸村』の名が後世、伝えられることになる。

信之の子孫である松代藩の史書にまで『幸村』が採用されていたとい

う。最近の日本史教科書においては『真田信繁』で統一されている

が、講談・歴史小説・映画などにおいては『幸村』が使用されてい

る。『信繁』という名の作品は殆ど聞いた事がない。

『幸』は真田家の通字(代々継承される字)であり、『村』は信繁の

姉の『村松』や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の『伊達綱村』、

徳川家を呪ったとされる『妖刀村正』の『村』から来ているなどの説

があると言われている。

そんな幸村の元に大坂から使者が訪れる。

大坂に風雲が起ころうとしていた。

幸村は幽閉されていた九度山を脱出して子の大助幸昌と大坂城に入城

した。その時の幸村は歯は抜け落ち白髪交じりで腰も曲がっていたた

め門番に山賊と勘違いされたという。

そこには『真田太平記』に出てくる草刈正雄のイメージや戦国無双の

キャラクターのイメージとは程遠かった事だろう。

外見からして爽やかで格好いいイメージを持つファンは多いと想うが

実際は、山賊のような感じだったのだ。

大阪で幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという

世に言う真田の赤備えである。

しかし幸村自身については、父・昌幸や兄・伊豆守信之の名声に隠れ

ていたために評価は低かったらしいのである。

それ故に徳川家康も謀将・真田昌幸ではなく、

その息子で無名の幸村が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたと

されている。

大坂冬の陣で幸村は、勇将・後藤又兵衛と共に籠城に反対し、

京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。

この作戦は父・昌幸が幸村に大坂で徳川を迎え撃つ時の策として語っ

たとも言われる。

しかし豊臣家の重臣・大野治長が籠城の策を主張すると篭城と決する

こととなる。

幸村は大坂城の弱点と言われた東南隅に『真田丸』と呼ばれる出城を

築き、鉄砲隊などにより徳川の軍勢に甚大な損害を与えたのである。

また、この真田丸を造る際、幸村が徳川方に寝返るための下準備と

疑っており、少々ながらも警戒していたらしい。

この時は越前松平勢や加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という

扱いではなく、初めて『真田信繁』として、その武勇が世に広まる事

になる。確かに、今まで、昌幸の元で戦っていただけに幸村はあまり

目立たなかったであろう。幸村が戦闘の指揮を執った事が確認される

のは大坂の陣だけであるという。

初めて、自分が真田家の総大将として戦を指揮した戦が大坂の陣であ

ったのである。

彼の伝説を創る為に、天はこの戦を彼に用意したのである。

その後、冬の陣が講和し、真田丸は真っ先に壊され、堀は埋め立てら

れたのである。

大坂方の弱体化を謀る家康は、使者として幸村の叔父・真田信尹を派

遣し『信濃の中で一万石を与える』事を条件に寝返るよう説得してい

る。家康も幸村の冬の陣での戦いぶりに多少、驚いていたに違いない

『さすが昌幸の子である』とくらいに想った事だろう。

しかし幸村はこれを断った。

すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は『信濃一国を与

える』と説得に出た。

これを聞いた幸村は『この幸村、一万石では不忠者にならぬが、一国

では不忠者になるとお思いか』と再度、断ったと言う。

そして、夏の陣が起こる。

奥州筆頭・伊達家の有名な騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せなが

ら闘う戦法で一時的に後退させた『道明寺の戦い』である。

徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、それを見計らっ

て幸村は大坂城に一時撤収した。

その撤収の際には、『関東勢百万と候え、男はひとりもなく候』

(関東武者は百万いても男子は一人も居ないものだな)と徳川軍を、

あざ笑いながら悠然と撤収したといわれている。

わざと挑発したのだろうか。

ただし道明寺の戦いでは先行した後藤又兵衛の軍勢が真田軍が援軍に

駆けつける前に壊滅し、又兵衛は討死してしまう。

この戦いの前に家康は又兵衛に寝返りを打診していたため、又兵衛に

対して大阪城内では謀反の噂が流れた。そのため又兵衛は死を決して

先鋒を勤めたと言われる。黒田官兵衛自慢の勇将の死であった。

またこのときの指揮権は幸村にはなく、大野治長が持っていた。

そのため又兵衛の戦死の責任は幸村だけにあるとは言えないが、

真田勢の行軍の遅れが後藤勢壊滅の一因であるとも、

また又兵衛の心情を察し敢えて救援を遅らせたとも言われる。

私は後者の説は考えられないと想う。

ドラマなどでは、後藤又兵衛が幸村を待ちきれずに突撃したとされて

いたりする。戦は何が起こるか判らないものである。

そんな心情を察して遅らせるなどという事は絶対にないと想う。

豊臣軍は勇将・後藤又兵衛や猛将・木村重成などの主だった武将が討

死し、疲弊していった。

幸村は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、

側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。

これで豊臣氏の敗北が決まった。出陣していたら、徳川家の武将の中

には確実に士気が落ちた武将達もいたと想う。

幸村は最後の作戦に出る。

それは真田幸村軍が毛利勝永軍と明石全登軍と共に作戦を立て、攻撃

し家康の本陣を孤立させようとした。

しかし毛利軍が勝手の行動により作戦を断念せざるを得なくなった。

そして、真田幸村の軍勢は正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突

撃を敢行した。

この突撃は真田勢のみではなく、毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康

本営に攻め込んだ。

勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。

真田勢は越前松平勢を疾風の如き勢いで突破し、総大将・徳川家康の

本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした。

家康が本陣に攻め込まれ馬印を倒されたのは武田信玄に敗れた

『三方ヶ原の戦い』以来二度目と言われ、真田勢の凄まじさに家康は

自害を覚悟したほどだったと言われる。

これにより、偶然にも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒され

たこととなる。

信玄の魂及び滅んだ武田家の遺臣達の想いを真田幸村を応援したのか

もしれない。神がかり的な突撃であった。

最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、

ついに四天王寺近くの安居神社の境内で、味方の傷ついた兵士を看病

していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首

を与えた。

享年49歳であった。

真田幸村の名は、この戦いで不朽のものとなり、その武勲にあやかろ

うとした武将達が幸村の遺髪を取り合いお守りにしたと言われている

本当だろうか?

人生50年を流れ星の如き速さで流れ、そして散っていった。

幸村討死の翌日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害して果てた。

太閤秀吉の栄華を誇った大坂城も炎上し落城したのである。

ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。

しかし、その後大坂では幸村は生きており、

秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われる

また、秀頼に関しては、薩摩へ逃げ落ちたとの説もある。

幸村には、最後まで生き残るという考えは全くなかったのだろう。

兄の信之は、その後90歳過ぎまで生きた。

その真田家は明治維新まで生き残るのである。

そんな兄の存在があったから、幸村は潔く散る事を選んだのだろう。

その存在は結構、彼が生きていく上で大きな存在だったかもしれない

大坂の陣は幸村にとって、本当の意味での自分自身の力を発揮する為

の最初で最後の戦であったといえるかもしれない。

祖父・真田幸隆と父・真田昌幸の遺伝子を見事に受け継いだ戦いぶり

であり、真田の家名も不朽のものにしたのである。

そして、この戦で真田幸村は祖父や父以上に伝説的な存在となったの

である。

『日の本一の兵』として。
posted by よしの at 22:16| 千葉 ?J| Comment(0) | TrackBack(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月28日

日の本一の兵 真田幸村(2回目)

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『柔和で辛抱強く、物静かだった』と兄である信之は、幸村を評価し

ていたという。

鬼神のようなイメージとは違い、家臣にも優しかった事だろう。

また、信之は『幸村は国を支配する本当の武将であり、それに対して

我らは見かけを必死に繕う、自分を強く見せかけている道具持ちとい

う程の差がある。』とも語っていたらしい。

この言葉が本当かどうかは判らないが、

それくらい優れた器量の持ち主であったに違いない。

後に人質として越後の上杉景勝の元に送られるが、その器量に惚れこ

み、人質としての扱いは受けなかったという。

その時に名宰相・直江兼続にも親交を深めると同時に、その人間性に

影響を受けたに違いない。

その後、更に秀吉の人質として大坂に赴くが秀吉も幸村の才覚に惚れ

たそうである。
それ故に、自分の家臣の大谷吉継の娘と娶わせているのである。

最近では、大谷吉継は秀吉の隠し子であったのではないかとの説もあ

るほどの秀吉自慢の家臣です。

それが、幸村の運命に少なからず影響する事になる。

真田家の宝は、何であっただろう?。

それは忠誠心の高い勇猛な家臣であっただろう。

それを証明したのが、2度に渡る徳川軍との戦いである。

昌幸や幸村の手足の如く動き、徳川軍を翻弄し撃退するのである。

今から15年くらい前になるだろうか。

学生時代に真田の地をめぐる旅をした事がある。

その時に訪れた真田家の菩提寺である長谷寺(ちょうこくじ)にお参

りに行った事がある。

真田家代々の藩主達の墓石の他に、確か幸村とその息子の大助の墓石

があったと想う。

そこに、真田家家臣の子孫であった『菅沼さん』というおじさんが

いろんな事を教えてくれ案内をしてくれたのを覚えています。

そんな彼の先祖が徳川軍と戦い、真田家を守り通したのであろう。

子孫の中には今でもそういう誇りを持ち続けている人もいる事だろう

大坂籠城戦の時も幸村の元に集まった遺臣は三千人といわれている。

真田が大坂に入ったと聞くと我先にと続々と駆けつけたに違いない。

そして同じく真田が大坂に入ったと聞いた家康は

昌幸ではなく幸村であったことに安心したという。

だが、そんな幸村に対して『信濃一国』を与えるとか言って、味方に

付けておきたいと想ったのは真田に対する恐怖心が頭に離れないでい

たのであろう。そして不気味に感じていた事だろう。

今日は、これくらいにしておきましょう。
posted by よしの at 22:04| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月27日

日の本一の兵 真田幸村(1回目)

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『戦国無双』『戦国BASARA』などで、その表紙を飾る赤備えの

格好いい武将がいる。その名は真田幸村である。

大阪冬の陣・夏の陣で武名を轟かせ、『日の本一の兵』と徳川家康他

名のある武将の目の前で武勇を見せ付けた勇将である。

その真田幸村であるが、正式には『信繁』という名前である。

かつての主である武田信玄公の弟である名将・武田信繁にあやかって

名付けたのであろう。

父である昌幸が恐らく武田信繁の人格に惚れて、その名を貰い受けた

のであろう。かつて、昌幸は信玄の近習として仕えていた関係もあり

信玄公の弟である武田信繁とも頻繁に接触していたに違いない。

そんな日常のやりとりで、その信繁の人格と生き方に感銘を受けたに

違いない。

また、幸村自身、武田信玄や武田信繁に面識があったのだろうか?

確か池波正太郎氏の『真田太平記』という作品の中では、信玄公に頭

を撫でられたという場面が書いてあった気がするがどうだっただろう

か?幸村が九歳か十歳くらいで主家である武田家が滅んでいる事もあ

るのでどうだろう。

兄『信幸』弟『信繁』という感じであったのだ。

では、『幸村』という名が有名になったのは、江戸時代の軍記物など

から創作によるものという説もある。

しかし『幸村』という名が通りがいいし、しっくり来る。

池波氏の『真田太平記』が何年か前にNHKでテレビ放送されていた

が主人公の真田信之に渡瀬恒彦氏、真田昌幸に丹波哲郎氏、

そして真田幸村に草刈正雄氏が演じていた。

その草刈正雄氏演じる真田幸村がとても、爽やかで格好良かった印象

を強烈に残っている。

大阪夏の陣で中村梅之介氏演じる徳川家康に向かって突撃するシーン

などは鳥肌が立ったものである。

その真田幸村が後世に名を残すが、その生き様は戦国の世を駆け抜け

た流れ星のようであった感じがする。
posted by よしの at 23:12| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

国士無双 大将軍・韓信(後編)





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韓信は、紀元前一九六年にこの世を去っている。

しかし、生まれた年ははっきりしないのである。

それ故、何歳まで生きたのだろうか?

紀元前二〇九年に項羽の元に仕え、

その三年後の紀元前二〇六年に劉邦の元へ来たのである。

つまり韓信を得て十年も経たずに劉邦は天下を取る事になるのである

そんな韓信を劉邦は重用せず、その存在を気に留めなかったようであ

る。『股夫(こふ)』の逸話を聞いていたのかもしれない。

この頃の劉邦軍では中国の辺境にいることから将軍や兵士の逃亡が相

次いでいた。韓信もその中の一人であった。

それを知った蕭何(しょうか)は韓信を慌てて追った。

劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると

強く詰問した。

『蕭何は逃げたのではなく韓信を連れ戻しに行っていただけです』と

説明したが、劉邦は『他の将軍の時は追わなかったではないか。なぜ

韓信だけを引き留めるのだ』と蕭何の言を疑ったが、

蕭何は『そのような将軍はいくらでも手に入ります。

韓信は『国士無双』です。もし陛下がこの漢中で生涯を終わるつもり

ならば韓信は必要ありませんが、陛下が天下を取ろうと考えるのなら

ば韓信がいなくてはなりません』と言った。

そして劉邦は、韓信を全軍を指揮する『大将軍』の地位に就けたので

ある。韓信が歴史に登場する瞬間であった。

この時以降、韓信が軍事的才能を発揮し大活躍するのである。

蕭何に大変感謝した事であろう。地位も名誉もなく、何もない韓信が

これほどの地位に就く事は大変な事である。

劉邦軍が身分を気にせず、いかに能力を重視した組織であったかが判

る。劉邦の子分のような樊かいなどは気に入らなかったかもしれない。

横山光輝氏の漫画でも、その様子が描かれている。

韓信は早速、劉邦に関中を手に入れる様に進言する。

劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられると言った。

関中の三秦の王は二十万の兵士を見殺しにし、すでに人心は離れてい

る。その逆に劉邦は以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気

がある。関中はたやすく落ちると進言した。

劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。

劉邦はこの年の八月に関中攻略に出兵し、この地を手に入れる。

そして関中の地を本拠地として項羽との対決に臨む事になる。

その頃、項羽に反発する反乱が相次ぎ、項羽はその対応に苦慮してい

た。そんな項羽に対して劉邦は諸侯との連合軍五十万を率いて親征

し、項羽の本拠地・彭城を陥落させる。

しかし、斉から引き返して来た項羽の軍三万に大敗し、

命からがら榮陽に逃走した『彭城の戦い』である。

この時、韓信はどうしていたのだろうか。

私は疑問に想う。何をしていたのだろうか?と。

調べてみると韓信は劉邦に同行しており途中で兵を集めて、追撃して

きた楚軍を迎撃し、劉邦の撤退を助けたという。

この楚軍の行動は韓信にとっても予想外であったのかもしれない。

項羽がこれほどの速さで戻ってくるとは想っていなかったのだろう。

韓信はこの大敗に気を引き締め、多くの事を学んだに違いない。

そして劉邦自らが項羽と対峙している間に、韓信の別働軍が諸国を平

定するという作戦を採る。

漢側に付いていたが裏切って楚へ下った魏の魏豹(ぎひょう)を討つ

ことにした。

魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。

韓信は囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上

流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首

都・安邑(あんゆう)を攻撃し魏軍が慌てて引き返したところを討っ

て魏豹を虜にし魏を滅ぼした。

この後、北上し代を占領し、さらに趙へと進軍した。

ここで韓信の軍事的才能が発揮される。

故事にもなっている『背水の陣』という独創的な戦術を採り、川を背

にして後を断たれた韓信の軍勢は修羅のような強さで二十万の趙軍を

打ち破り陳余と趙王趙歇を斬った。

そこで趙の将軍であった李左車を軍師として迎え、その進言を入れ、

燕の王に使者を送って降伏させた。

そして張耳(ちょうじ)を趙王として建てるように劉邦に申し出て、

これが認められる。

この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足

の漢軍に対して兵を送り続けていた。

しかし、ついに劉邦は楚の包囲から逃げ出し韓信たちの陣営まで来る

と出迎えもせず、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで寝ている韓信

を怒鳴りつけ指揮権を奪った。

韓信に『斉を平定するように』と命じた。

ところが劉邦は韓信を派遣しながら気が変わり、

儒者の家臣を派遣して斉と和議を結んだ。韓信は斉に

攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとし

ていた。

しかしこの時、韓信の軍中にいた智者カイ通は『劉邦様からの命令で

進軍してきたのであり、未だ停止命令は出ていないので、このまま斉

に攻め込むべきです。儒者は舌だけで斉を降してしまいました。この

ままでは将軍の功績が一介の儒者の功績に劣ることになってしまいま

す。』と述べ、韓信はこの勧めに従ってそのまま斉に侵攻した。

備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王は儒者を煮殺し

て逃亡した。

斉は楚に救援を求め、項羽は将軍竜且(りゅうしょ)と二十万の軍勢

を派遣する。

竜且は持久戦に持ち込むことを進言されたが、以前の『股夫』韓信を

知っていたので、侮って決戦を挑むのである。

韓信も猛将・竜且の意図を読んでいた。川が流れている場所を戦場に

選んで迎え撃った。

韓信は決戦の前夜に河の上流に土嚢を落とし込んで堰を作らせ、流れ

を塞き止めさせていた。

韓信は負けた振りをして竜且の軍をおびき出し、楚軍が河を渡ろうと

した所で堰を崩させた。

怒涛の如く向かってきた水流に竜且の二十万の軍勢は散り散りとな

り、完膚なきまの大敗北を喫した。

竜且は捕虜になって処刑された。

そして斉を平定した韓信は、

劉邦に対して斉の鎮撫のために自らが斉王になりたいと申し出た。

劉邦は自分が苦しい時に何を言い出すかと怒りかけたが、

張良と陳平に諌められ、これを許可した。

ここで、韓信を敵に回す訳にはいかないので止むおえない処置だった

だろう。

一方、斉王となった韓信に項羽も一目置き、脅威を感じ始めた。

武渉(ぶしょう)という家臣を派遣し、韓信に楚に味方するよう説

き、劉邦は見逃してやっても攻めてくるような義理のない信頼できな

い人物であるため、貴方にとって従わない方がいいと説いた。

韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、劉邦に大抜擢され、

さらに斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に

断った。

この後に韓信の側近となっていたカイ通(かいつう)から

『天下の要衝である斉王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が

争いに疲れた頃に貴方が出て、これを鎮めれば天下は貴方のものです

ぞ』と進言され、韓信も大いに悩んだが結局この意見を退けた。

後に彼は身の危険を恐れ、狂人の振りをして出奔した。

果たして彼の言うとおりになっていただろうか?

韓信は自分がとても重要な立場にいる事と自分がキーマンであること

をカイ通の進言によって気付いた事であろう。

その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果て

た両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。

しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲い掛かった。

韓信にもこれに加わるように要請が来るが、韓信はこれを黙殺したた

めに劉邦は敗れる。

焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して戦後の『斉王の位』を

約束し、再び援軍を要請した。 ここに及んで韓信は三十万の軍勢を率

いて参戦する。

後の彼に起こる出来事を考えると、この行動が良くなかったかもしれ

ない。

そして、これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。

漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江で自決し、

五年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した。

世に言う『垓下の戦い』である。

項羽の死後、劉邦は韓信を斉王から楚王へと移した。

故郷の淮陰に凱旋した韓信は、かつて飯を恵んでくれた老女に大金を

与え、またかつて自分を侮辱した不良を探し出して中尉の位につけた

その際に『あの時、この者を殺すのは容易かったが、それで名が挙が

るわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登るこ

とが出来たのだ』と自慢した。

また、居候していた亭長には『世話をするなら最後までちゃんと面倒

を見よ』と戒め、百銭を与えた。

報恩のやり方に韓信の人柄を想像できる話である。

だが、ここが韓信の絶頂期であった。

これから転落の坂を一気に転げ落ちることとなる。

楚の将軍・鍾離昧を匿ったことで劉邦の不快を買い、また韓信の異例

の大出世に嫉妬したものが『韓信に謀反の疑いあり』と讒言したため

これを弁明するために自害した鍾離昧の首を持参し、謁見したところ

を捕縛された。

韓信は『狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)煮られ、高鳥尽きて

良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮ら

れるのか』と春秋戦国時代の越の宰相・范蠡(はんれい)の言葉を引

き、劉邦は韓信を淮陰侯に格下げすることで収めた。

韓信はそれ以降、長安の屋敷で鬱積した日々と過ごした。

ある時、樊カイの所に立ち寄ったが、韓信を尊敬する樊カイは礼儀正

しく韓信を『大王』、自らを『臣』と呼んで最大限の敬いを見せた

が、韓信は『生きながらえて樊カイなどと同格になっている』と自嘲

した。

劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。

劉邦が韓信に『私はどれくらいの将であろうか?』と韓信に聞くと、

韓信は『陛下はせいぜい十万の兵の将です。』と答えた。

劉邦が『ではお前はどうなんだ。』と聞き返したところ、

『私は多ければ多いほど良いでしょう。』と韓信は答えた。

劉邦は笑って『ではどうしてお前が私の虜になったのだ。』と言った

が、韓信は『陛下は兵を率いることが出来なくても将に対して将であ

ることができます。これは天授のものであって、人力のものではありま
せん。』と答えたという。

韓信は兵の中の将であり、劉邦は将の中の将であるということであろ

う。

時は流れ、陳キ(ちんき)が鉅鹿太守に任命された。

韓信を尊敬していた彼は出立の前に長安の韓信の屋敷に挨拶にやっ

てきた。

韓信は陳キに自分に対する冷遇にもう劉邦への忠誠はなく、

『もはや私が天下を取るまでだ』と言い、一計を授けた。

劉邦の信頼が篤い彼が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に

赴き、長安は空になる。

そしてその隙に自分が長安を掌握する。

『反乱が各地で多発しているように天下には不満が渦巻いているの

で、諸国も味方に付くだろう』というのである。

紀元前一九六年の春、果たして陳キは鉅鹿で反乱を起こした。

信頼する陳キの造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のた

めに親征し、都を留守にした。

韓信は、この機会に長安で反乱を起こし囚人を解放して配下として

皇后の呂后と皇太子を監禁して政権を奪おうと謀った。

だが韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため計画は事前に

発覚してしまう。

呂后に相談された相国(しょうごく)の蕭何は『陳キが討伐された』

という噂を流し、さらに韓信を招いて捕らえようとした。

そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。

用意周到に謀反を計画し慎重さにもぬかりのなかった韓信だが、

大将軍に推挙してくれた恩人ともいえる蕭何だけは信用していたた

め、疑わなかったのである。

そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の宮内で斬られ、

彼の一族も処刑された。紀元前一九六年の事であった。

韓信は死ぬ間際に『カイ通の勧めに従わなかったことが心残りだ』と言

い残した。カイ通の進言に従っていたらどうなっていただろうか?

あの時が韓信に与えられたチャンスだったのかもしれない。

結局、そんな韓信は野心を持ったまま恩義を感じていた劉邦に従った

という事になり、その野心を活かすチャンスを与えられたにも関わら

ず、活かす事が出来なかった。今の時代でもそういう人間はたくさん

存在していることだろう。

恩義の為に自分のやりたい仕事や行きたい会社に行かないでいる人間

が。そして、後から後悔するのである。

韓信はそんな感じの悲劇の英雄であったと言えるのではないか。
posted by よしの at 16:50| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国士無双 大将軍・韓信(前編)





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漢王朝の創業に大きく貢献した張良・蕭何(しょうか)と共に三傑の

一人とされる淮陰侯(わいいんこう)韓信という中国史上でも稀代の

名将として名高く、そして悲劇の人としても有名である。

この名将は『忍耐』の人という印象を受ける。

有名な逸話として、『韓信の股くぐり』というエピソードがある。

ある日、人通りの多い町中で韓信は町の不良に『お前は背が高く、い

つも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。

命を投げ出す度胸があるなら、その剣で俺を刺してみろ。

出来ないならば俺の股をくぐれ』とからまれた。

韓信は黙って股をくぐり、周囲の者はその行為を大いに笑い、馬鹿に

した。この行為により『股夫(こふ)』というあだ名がついてしまっ

た。どんな心境であっただろうか。

私自身なら恐くて逃げられる事なら逃げてしまう。それが出来なけれ

ば恐くて股をくぐるだろう。さて 大いに笑われた韓信であったが、

『恥は一時、志は一生。この不良を殺しても何の得もなく、それどこ

ろか仇持ちになってしまう』と冷静に判断していたと言われる。

本当に、その時そう想ったのだろうか?元々、喧嘩が嫌いで争う事も

面倒だった結果、不良に従ったのではないだろうか。

そこに、志や大望があったのだろうか?

韓信は、貧乏で普段の行いも悪く職に就けず、いろんな人の家を渡り

歩き居候生活を続けていた。

亭長の家に居候していた際、何にもしない韓信に亭長の妻が食事を出

さないこともあったという。

韓信は亭長の家を出て行き数日間何も食べないで放浪し見かねた老女

に数十日間食事を恵んでもらうような有様であった。

そんな韓信を町のみんなは見下していたと言う。

そんな韓信が志を持って生きていたのだろうか。

そして、後に発揮する天才的軍事能力は一体どこで身に付けたのだろ

うか。このプータローの時期に身に付けたものなのだろうか?

そんな韓信が始皇帝の死後、動き出した世の中に行動を起こす。

そのあたりの事情はどうだったのだろうか。

韓信は項梁、項羽に仕えるがきっかけは何だったのだろうか。

この頃は一兵卒として手柄を立てることを考えていたのかもしれな

い。まさか、後に自分が天下に影響を及ぼす存在になろうとは想って

も見なかっただろう。

彼は項羽をどう評価していたのだろうか。

鬼神の如き強さを発揮する項羽の能力に魅力を感じていたかもしれな

い。

横山光輝氏の『項羽と劉邦』では、食料だったか武器だったか倉庫の

番人みたいな仕事に就いていた。

ある日、劉邦が漢中へ赴任する時に張良が韓信の唄を聞く。

そして、その唄を聴いた張良がとても肝を冷やす。

そして、項羽に対する韓信の進言書を読んだ張良は恐怖を感じる。

『このような人間がいるのか』と。

そして、蕭何と共に韓信を引き抜くのである。

そんなこともあり韓信は項羽の下から離れ漢中の劉邦の元へと移る。

しかし、ここでもつまらない役しか与えられなかった。

ある時、罪を犯し同僚と共に処刑されそうになった。

たまたま重臣の夏侯嬰がいたので、『劉邦様は天下に大業を成すこと

を望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ。』と

訴え、韓信に興味を持った夏侯嬰は、劉邦に推薦した。

劉邦はとりあえず韓信を兵站官としたが、韓信に対してあまり興味を

持たなかった。

自らの才能を認めて欲しい韓信は漢軍の兵站の責任者である蕭何と何

度も語り合い、蕭何は韓信を天下の異才と認めて劉邦に何度も推薦す

るが、劉邦はやはり受け付けなかった。

国士無双・大将軍韓信の誕生はまだ先の事であった。

それにしても、韓信の才能は天賦の才というものであろうか。

勤勉努力をしたのであろうか?

の辺が、名将・楽毅や名軍師・諸葛亮孔明とは違うタイプのように想

うのである。
posted by よしの at 01:39| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月24日

影を踏み続けた悲劇の将 武田勝頼













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