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韓信は、紀元前一九六年にこの世を去っている。
しかし、生まれた年ははっきりしないのである。
それ故、何歳まで生きたのだろうか?
紀元前二〇九年に項羽の元に仕え、
その三年後の紀元前二〇六年に劉邦の元へ来たのである。
つまり韓信を得て十年も経たずに劉邦は天下を取る事になるのである
そんな韓信を劉邦は重用せず、その存在を気に留めなかったようであ
る。『股夫(こふ)』の逸話を聞いていたのかもしれない。
この頃の劉邦軍では
中国の辺境にいることから将軍や兵士の逃亡が相
次いでいた。韓信もその中の一人であった。
それを知った蕭何(しょうか)は韓信を慌てて追った。
劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると
強く詰問した。
『蕭何は逃げたのではなく韓信を連れ戻しに行っていただけです』と
説明したが、劉邦は『他の将軍の時は追わなかったではないか。なぜ
韓信だけを引き留めるのだ』と蕭何の言を疑ったが、
蕭何は『そのような将軍はいくらでも手に入ります。
韓信は『国士無双』です。もし陛下がこの漢中で生涯を終わるつもり
ならば韓信は必要ありませんが、陛下が天下を取ろうと考えるのなら
ば韓信がいなくてはなりません』と言った。
そして劉邦は、韓信を全軍を指揮する『大将軍』の地位に就けたので
ある。韓信が歴史に登場する瞬間であった。
この時以降、韓信が軍事的才能を発揮し大活躍するのである。
蕭何に大変感謝した事であろう。地位も名誉もなく、何もない韓信が
これほどの地位に就く事は大変な事である。
劉邦軍が身分を気にせず、いかに能力を重視した組織であったかが判
る。劉邦の子分のような樊かいなどは気に入らなかったかもしれない。
横山光輝氏の
漫画でも、その様子が描かれている。
韓信は早速、劉邦に関中を手に入れる様に進言する。
劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられると言った。
関中の三秦の王は二十万の兵士を見殺しにし、すでに人心は離れてい
る。その逆に劉邦は以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気
がある。関中はたやすく落ちると進言した。
劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。
劉邦はこの年の八月に関中攻略に出兵し、この地を手に入れる。
そして関中の地を本拠地として項羽との対決に臨む事になる。
その頃、項羽に反発する反乱が相次ぎ、項羽はその対応に苦慮してい
た。そんな項羽に対して劉邦は諸侯との連合軍五十万を率いて親征
し、項羽の本拠地・彭城を陥落させる。
しかし、斉から引き返して来た項羽の軍三万に大敗し、
命からがら榮陽に逃走した『彭城の戦い』である。
この時、韓信はどうしていたのだろうか。
私は疑問に想う。何をしていたのだろうか?と。
調べてみると韓信は劉邦に同行しており途中で兵を集めて、追撃して
きた楚軍を迎撃し、劉邦の撤退を助けたという。
この楚軍の行動は韓信にとっても予想外であったのかもしれない。
項羽がこれほどの速さで戻ってくるとは想っていなかったのだろう。
韓信はこの大敗に気を引き締め、多くの事を学んだに違いない。
そして劉邦自らが項羽と対峙している間に、韓信の別働軍が諸国を平
定するという作戦を採る。
漢側に付いていたが裏切って楚へ下った魏の魏豹(ぎひょう)を討つ
ことにした。
魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。
韓信は囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上
流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首
都・安邑(あんゆう)を攻撃し魏軍が慌てて引き返したところを討っ
て魏豹を虜にし魏を滅ぼした。
この後、北上し代を占領し、さらに趙へと進軍した。
ここで韓信の軍事的才能が発揮される。
故事にもなっている『背水の陣』という独創的な戦術を採り、川を背
にして後を断たれた韓信の軍勢は修羅のような強さで二十万の趙軍を
打ち破り陳余と趙王趙歇を斬った。
そこで趙の将軍であった李左車を軍師として迎え、その進言を入れ、
燕の王に使者を送って降伏させた。
そして張耳(ちょうじ)を趙王として
建てるように劉邦に申し出て、
これが認められる。
この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足
の漢軍に対して兵を送り続けていた。
しかし、ついに劉邦は楚の包囲から逃げ出し韓信たちの陣営まで来る
と出迎えもせず、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで寝ている韓信
を怒鳴りつけ指揮権を奪った。
韓信に『斉を平定するように』と命じた。
ところが劉邦は韓信を
派遣しながら気が変わり、
儒者の家臣を派遣して斉と和議を結んだ。韓信は斉に
攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとし
ていた。
しかしこの時、韓信の軍中にいた智者カイ通は『劉邦様からの命令で
進軍してきたのであり、未だ停止命令は出ていないので、このまま斉
に攻め込むべきです。儒者は舌だけで斉を降してしまいました。この
ままでは将軍の功績が一介の儒者の功績に劣ることになってしまいま
す。』と述べ、韓信はこの勧めに従ってそのまま斉に侵攻した。
備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王は儒者を煮殺し
て逃亡した。
斉は楚に救援を求め、項羽は将軍竜且(りゅうしょ)と二十万の軍勢
を派遣する。
竜且は持久戦に持ち込むことを進言されたが、以前の『股夫』韓信を
知っていたので、侮って決戦を挑むのである。
韓信も猛将・竜且の意図を読んでいた。川が流れている場所を戦場に
選んで迎え撃った。
韓信は決戦の前夜に河の上流に土嚢を落とし込んで堰を作らせ、流れ
を塞き止めさせていた。
韓信は負けた振りをして竜且の軍をおびき出し、楚軍が河を渡ろうと
した所で堰を崩させた。
怒涛の如く向かってきた水流に竜且の二十万の軍勢は散り散りとな
り、完膚なきまの大敗北を喫した。
竜且は捕虜になって処刑された。
そして斉を平定した韓信は、
劉邦に対して斉の鎮撫のために自らが斉王になりたいと申し出た。
劉邦は自分が苦しい時に何を言い出すかと怒りかけたが、
張良と陳平に諌められ、これを許可した。
ここで、韓信を敵に回す訳にはいかないので止むおえない処置だった
だろう。
一方、斉王となった韓信に項羽も一目置き、脅威を感じ始めた。
武渉(ぶしょう)という家臣を派遣し、韓信に楚に味方するよう説
き、劉邦は見逃してやっても攻めてくるような義理のない信頼できな
い人物であるため、貴方にとって従わない方がいいと説いた。
韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、劉邦に大抜擢され、
さらに斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に
断った。
この後に韓信の側近となっていたカイ通(かいつう)から
『天下の要衝である斉王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が
争いに疲れた頃に貴方が出て、これを鎮めれば天下は貴方のものです
ぞ』と進言され、韓信も大いに悩んだが結局この意見を退けた。
後に彼は身の危険を恐れ、狂人の振りをして出奔した。
果たして彼の言うとおりになっていただろうか?
韓信は自分がとても重要な立場にいる事と自分がキーマンであること
をカイ通の進言によって気付いた事であろう。
その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果て
た両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。
しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲い掛かった。
韓信にもこれに加わるように要請が来るが、韓信はこれを黙殺したた
めに劉邦は敗れる。
焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して戦後の『斉王の位』を
約束し、再び援軍を要請した。 ここに及んで韓信は三十万の軍勢を率
いて参戦する。
後の彼に起こる出来事を考えると、この行動が良くなかったかもしれ
ない。
そして、これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。
漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江で自決し、
五年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した。
世に言う『垓下の戦い』である。
項羽の死後、劉邦は韓信を斉王から楚王へと移した。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、かつて飯を恵んでくれた老女に大金を
与え、またかつて自分を侮辱した不良を探し出して中尉の位につけた
その際に『あの時、この者を殺すのは容易かったが、それで名が挙が
るわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登るこ
とが出来たのだ』と自慢した。
また、居候していた亭長には『世話をするなら最後までちゃんと面倒
を見よ』と戒め、百銭を与えた。
報恩の
やり方に韓信の人柄を想像できる話である。
だが、ここが韓信の絶頂期であった。
これから転落の坂を一気に転げ落ちることとなる。
楚の将軍・鍾離昧を匿ったことで劉邦の不快を買い、また韓信の異例
の大出世に嫉妬したものが『韓信に謀反の疑いあり』と讒言したため
これを弁明するために自害した鍾離昧の首を持参し、謁見したところ
を捕縛された。
韓信は『狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)煮られ、高鳥尽きて
良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮ら
れるのか』と春秋戦国時代の越の宰相・范蠡(はんれい)の言葉を引
き、劉邦は韓信を淮陰侯に格下げすることで収めた。
韓信はそれ以降、長安の屋敷で鬱積した日々と過ごした。
ある時、樊カイの所に立ち寄ったが、韓信を尊敬する樊カイは礼儀正
しく韓信を『大王』、自らを『臣』と呼んで最大限の敬いを見せた
が、韓信は『生きながらえて樊カイなどと同格になっている』と自嘲
した。
劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。
劉邦が韓信に『私はどれくらいの将であろうか?』と韓信に聞くと、
韓信は『陛下はせいぜい十万の兵の将です。』と答えた。
劉邦が『ではお前はどうなんだ。』と聞き返したところ、
『私は多ければ多いほど良いでしょう。』と韓信は答えた。
劉邦は笑って『ではどうしてお前が私の虜になったのだ。』と言った
が、韓信は『陛下は兵を率いることが出来なくても将に対して将であ
ることができます。これは天授のものであって、人力のものではありま
せん。』と答えたという。
韓信は兵の中の将であり、劉邦は将の中の将であるということであろ
う。
時は流れ、陳キ(ちんき)が鉅鹿太守に任命された。
韓信を尊敬していた彼は出立の前に長安の韓信の屋敷に挨拶にやっ
てきた。
韓信は陳キに自分に対する冷遇にもう劉邦への忠誠はなく、
『もはや私が天下を取るまでだ』と言い、一計を授けた。
劉邦の信頼が篤い彼が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に
赴き、長安は空になる。
そしてその隙に自分が長安を掌握する。
『反乱が各地で多発しているように天下には不満が渦巻いているの
で、諸国も味方に付くだろう』というのである。
紀元前一九六年の春、果たして陳キは鉅鹿で反乱を起こした。
信頼する陳キの造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のた
めに親征し、都を留守にした。
韓信は、この機会に長安で反乱を起こし囚人を解放して配下として
皇后の呂后と皇太子を監禁して政権を奪おうと謀った。
だが韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため計画は事前に
発覚してしまう。
呂后に相談された相国(しょうごく)の蕭何は『陳キが討伐された』
という噂を流し、さらに韓信を招いて捕らえようとした。
そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。
用意周到に謀反を計画し慎重さにもぬかりのなかった韓信だが、
大将軍に推挙してくれた恩人ともいえる蕭何だけは信用していたた
め、疑わなかったのである。
そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の宮内で斬られ、
彼の一族も処刑された。紀元前一九六年の事であった。
韓信は死ぬ間際に『カイ通の勧めに従わなかったことが心残りだ』と言
い残した。カイ通の進言に従っていたらどうなっていただろうか?
あの時が韓信に与えられた
チャンスだったのかもしれない。
結局、そんな韓信は野心を持ったまま恩義を感じていた劉邦に従った
という事になり、その野心を活かすチャンスを与えられたにも関わら
ず、活かす事が出来なかった。今の時代でもそういう人間はたくさん
存在していることだろう。
恩義の為に自分のやりたい仕事や行きたい会社に行かないでいる人間
が。そして、後から後悔するのである。
韓信はそんな感じの悲劇の英雄であったと言えるのではないか。