2008年02月28日

笑わない寡黙の武将 上杉景勝(後編)



 

































上杉景勝には、こんなエピソードがある。

彼が飼っていた猿が自分の真似をして部下に指図する真似をしていた

のだ。

その姿を観た笑わない主君である景勝は思わず笑ってしまったという

その姿が生涯、一度だけ人前で見せた笑顔だと言われている。

恐らく、この猿は秀吉のあやかって飼ったのかもしれない。

信長の死後、実権を握った猿こと羽柴秀吉と気脈と通じるようになる

こちらの猿も上杉家に好意的でもあったことがまた幸いした。

さらに、佐渡の支配を許され秀吉を後ろ盾に長年にわたり対立してい

た新発田重家を討ち、佐渡の支配を確立する為に景勝に反発する佐渡

の本間氏を討伐し佐渡を平定した。

そして、秀吉が豊臣の姓を名乗るようになる。

上杉家は豊臣政権の一員として活躍する事になる。

小田原合戦や朝鮮出兵などにも参陣している。

景勝だけでなく、多くの戦国武将が家督相続では苦労している。

武田信玄織田信長、伊達政宗、そして上杉謙信もその一人である。

そして、その謙信の後を継いだ上杉景勝も例外ではなく『御館の乱』

を経て家督を継いでいる。

しかし、この景勝はもともと養父である軍神であり正義と信義の人・

上杉謙信を尊敬している。

景勝も謙信にあやかり、少しでも彼に近づきたいと想ったであろう。

豊臣政権下における、その後の景勝は謀略を好まず礼儀正しく行動し

たのである。そんな景勝を秀吉は信頼したのである。

豊臣家五大老の一人であった小早川隆景が死去するとその後釜に就任

する。そして蒲生氏郷が死去した後、蒲生氏が改易され、その代わり

に会津に転封されて一二〇万石に加増される。

これは、伊達政宗など東北諸大名の監視と牽制のための秀吉による

配置であり、信頼の証でもあったかもしれない。

また絶対に裏切らないし、それだけの力があると認めていたのであろ

うと想う。

そして、徳川家康に対しての配置でもあっただろう。

この時、米沢城に直江兼続に三十万石が与えられる。

これは、直江兼続を自分の直属の家臣にしたかった秀吉の命によるも

のであったと想う。

景勝もまた、秀吉の恩義に報いようとした。

秀吉が死去すると、直江兼続が石田三成と懇意にあった事などの経緯

から徳川家康と対立する。

この時、天下を狙う家康の野望を潰そうと考えていたのである。

謙信公以来の義侠心が黙っていられなかったかもしれない。

慶長五年(一六〇〇年)になると、景勝は領内諸城の補修を命ずる。

鶴ヶ城に変えて会津盆地のほぼ中央に位置する神指に城の建築を命ず

る。

家康はこれらの景勝の行動を上洛して申し開きをするように召還命令

を出す。しかし、上杉景勝と直江兼続はこれを拒否する。

この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。

この際、直江兼続による挑発的な返答が家康の会津征伐を煽ったとさ

れる。有名な『直江状』である。

家康は大軍を率いて景勝討伐に会津へ出陣する。

景勝は家康軍の対応にあたる。そんな時に家康の留守中に三成らが

畿内で挙兵し、家康が一部の兵を残し畿内へ戻った。

本来ならば、この時に三成と呼応して東西から家康を挟撃する予定で

あったといわれているだが、家康は宇都宮に陣を敷き様子を見守った

為に、この作戦は実行出来なかった。その後、家康やその主力軍がい

なくなると東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った。

しかし、無念にも三成ら西軍が敗れた。

景勝も家康に降伏することを余儀なくされた。

慶長六年(一六〇一年)、景勝は直江兼続と共に上洛して家康に謝罪

し上杉家の領土の大半を召し上げられた。

出羽米沢三十万石藩主として減封されるが上杉家は存続が許された。

もし、家康と景勝が直接戦っていたら、謙信以来の上杉軍の戦いぶり

が見られたかもしれない。

そして、それは上杉景勝と直江兼続の望むところであっただろうと想

う。謙信公にその戦いぶりを存分に見せたかっただろう。

減封後、宰相の直江兼続と二人三脚で米沢藩の藩政に力を入れた。

減封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず家臣をクビに

しなかった。そして、ほとんどの家臣達が上杉家を離れなかった。

これが後世の米沢藩の元凶になり財政難を招く事になる。

そして中興の祖・上杉鷹山の登場を待つ事になる。

慶長十九年(一六一四年)からの『大坂冬の陣』では徳川方について

先鋒として活躍した。夏の陣では京都警備を担当する。

元和九年(一六二三年)三月二十日に米沢で死去する。

享年六十九歳で、その波乱の人生を閉じた。

『天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおい

て他にいない。そして義を貫く人物は景勝殿をおいて他にはいない』

と景勝を評価した男が傾奇者・前田慶次郎であった。
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2008年02月27日

笑わない寡黙の武将 上杉景勝(中編)



































上杉景勝という武将は、養父である上杉謙信の存在や名宰相である

直江兼続などの存在が大きかった故に、

彼らに勝るとも劣らない景勝は彼らに比べて、

あまり有名ではなく豊臣家の五大老の一人でありながら、その存在感

はあまり目立つものではなかったように想う。

しかし、景勝はそんなことは気にしなかっただろう。

謙信の存在があった故に、自分が謙信には及ばない事も判っていただ

ろう。

そして、自分自身の器量も判っていたかもしれない。

それが、彼の強みであり、時には仇となったかもしれない。

さて、不安定ながらも越後を統一したが国内は不安定であった。

元々、仲の悪かった北越後の新発田重家が織田信長と組み、造反した

そして柴田勝家率いる織田軍に上杉家が領有していた越中を奪われて

しまう。上杉家は滅亡の危機に立たされた。

織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家はまさに窮地に立たされるが、

ここで、織田家に大事件が起きる。

織田信長が『本能寺の変』で倒れてしまう。

織田軍は北陸どころではなくなった。

そして上杉家は九死に一生を得たのである。

しかし、織田氏の侵攻に加え、家督争いの後始末にてこずったことか

ら、謙信が一代で築き上げた上杉王国は衰退し、上杉家の力は急激に

凋落の一途を辿った。その勢力圏は、越後一国のみとなっていた。

直江兼続もこの状況をどうすることも出来なかったのだろう。

景勝と兼続の限界だったのかもしれない。

二人の力を合わせても、謙信には及ばないと痛感しただろう。

それくらい、軍神・上杉謙信が偉大であり巨大な存在だったのだ。

その謙信を景勝も兼続も大いに尊敬していたと想う。

そして、景勝は自分の感情を抑制するように心掛けていたと言う。

その弊害が、彼を『人前で笑わない男』にしてしまった。

しかも極端に無口であり、いつもムスッとしていて何だか不機嫌そう

に黙っていたという。

また、家臣に対しても物凄く厳しく怠慢な行為を見つけると激しく

叱ったという。そして、時には手打ちにしたという。

信長も顔負けの専制君主である。

家臣は、生きた心地がしなかったのではないだろうか?

しかし、家臣達は景勝に命令されると、どんな命令でも直ぐに実行し

たという。謙信とは違う自分を判っていただけに時には恐怖により

家臣を従わせる事も考えたのかもしれない。

軍神でありカリスマの塊である謙信と比較されれば、どんな武将でも

小さく見えてしまうだろう。

武田勝頼といい、上杉景勝といい、偉大な先君の後を継ぐという事は

本当に大変なことである。

武田家は滅亡してしまったが、上杉家も下手をしたら同じ道を歩んで

いた可能性もあったわけだから本当に大変だっただろう。

そして、その上杉家に、いや上杉景勝に直江兼続がいたことが最も

大きな幸運であっただろう。

武田勝頼には真田昌幸がいたが勝頼自身が側近くに置かなかった為に

不運を招いたかもしれない。

それが、勝頼と景勝の違いだったのである。

そんな上杉景勝と直江兼続の前に運命の人物が現れるのである。

猿と呼ばれた男・羽柴秀吉である。
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2008年02月26日

笑わない寡黙の武将 上杉景勝(前編)



 




























毘沙門天の化身・上杉謙信には二人の養子がいた。

生涯、結婚しなかったと言われる謙信には実子がいなかった。

そのため二人の養子が謙信の後を継ぐ者として注目される事となる。

一人は、謙信の親戚にあたる長尾政景の次男である喜平次を養子とす

る。後の『景勝』である。景勝の母は謙信の姉であるため、叔父と甥

の関係にあたる。

そして、もう一人は関東の北条氏と同盟を結んだ時に北条氏康は自分

の七男にあたる北条三郎を人質として謙信の元に送って来た。

しかし、三郎は美男子であり、聡明な少年であったのである。

謙信は彼を気に入り人質としてではなく、養子として上杉一門として

彼を迎え、かつての自分の名前であった『景虎』を名乗らせた。

謙信は、景勝よりも景虎を気に入っていたかもしれない。

北条の人質を養子として迎えるくらいであり、謙信のかつて名乗って

いた名前を名乗らせる訳である。

もし、謙信が急死しなかったら上杉家の家督は景虎が相続していたか

もしれない。

謙信は後継者を決めぬままにこの世を去ってしまう。

現代の世でもありそうな話である。

そして、二つに分かれてお互いに競い合うと言う話はよく聞く。

堤一族の東武と西武や君島一族の争いなど現代でもある話である。

しかし、戦国の世は命懸けである。

謙信の死後、間もなく後継者争いが起こる。

景勝はいち早く、上杉家の居城である春日山城を占拠する。

そして、景虎は御館に籠って応戦した。

この戦いは終始、景勝がリードし続けるのである。

このあたりの戦の仕方は謙信譲りである。

しかし、養祖父である上杉憲政が景虎の味方に付く。

そして、不利な立場にあった景虎を救おうとして和議を調停しようと

した。しかし、景勝の凄みがここで発揮される。

上杉憲政と景虎の嫡男を謀殺してしまうのである。

上杉景勝という男は目的の為には手段を選ばない人間である。

景勝の非情な一面でもあるのだ。

謙信とは似ても似つかない、むしろ織田信長や武田信玄に共通する

資質かもしれない。

『毘沙門天の生まれ変わり』『正義の人』として生きた謙信の嫌う

資質であったかもしれない。

少なくても、人の上に立つ人間の行為ではないと想っていたかもしれ

ない。

ただ、景勝は謙信とは違うのである。

それを一番良く判っていたのは景勝その人であっただろう。

だから、『自分は父である謙信のようには生きていけない』と想って

いただろう。その為に非情さであったのかもしれない。

戦国の世はそんなに甘くないのである。

謙信に愛され、謙信の教えを忠実に守り、謙信に対して恩義を抱いて

いた景虎である。正々堂々と戦おうとしたのであろう。

しかし、非情に徹した景勝に追い詰められ、『もはや、これまで』と

自害してしまうのである。

世に言う『御館の乱』である。

そして、これらの景勝の一連の行動に対して、いつも側近くにいたの

が、直江兼続であった。彼の存在がとても大きかったのである。

景勝と兼続のコンビにより『御館の乱』を制し、上杉家を手に入れた

のである。

そして、この二人が手に入れた新しい上杉家が戦国の乱世を生き抜い

ていこうとするのである。国の内にも外にも問題は山積であった。

そして、その道はとても厳しい道であった。
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2008年02月25日

小覇王 孫策(後編)





 

























『三国無双』というゲームに出てくる孫策は、筋骨隆々で

とても力強い武将である。

敵をヘッドロックして殺してしまったという事を聞いた事がある。

相当の力であったのだろう。

さて、孫策が江東の地盤を確固たるものにした。

袁術から借りていた兵も返し、それと同時に担保として入れていた

伝国の玉璽の返還を求めたが、袁術は返さなかった。

それが原因になり、二人は敵対する事となる。

孫策の勢力が大きくなるのを怖れた袁術は、一族である袁胤にし、

孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤

を追放し完全に袁術に対し独立すると共に敵対することになった。

孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて

孫策の元へ合流する。

また、袁術の部下であった武将の一部も袁術を見限り孫策に従う事と

なった。

そして、この時に独立勢力となっていた猛将・太史慈を打ち破り、

その配下としている。孫策の勢力が大きくなると共に彼の周りには

猛将、智将と優秀な部下が集まってきた。

その中でも、やはり周瑜である。彼の存在が孫策にアクセルを踏ませ

ると共に時にはブレーキを踏ませるなどの役割、つまり軍師として活

躍したのである。

孫策の躍進は周瑜と共に行った共同作業であったといえるかもしれな

い。ベンチャー素晴らしきパートナーと言えるだろう。

しかも、最高のパートナーであった。

この頃、袁術が玉璽を用いて皇帝を名乗るのである。

孫策は益々、袁術を敵視し後漢の皇帝を擁する曹操から袁術討伐の

詔勅を授かると、これに呼応して兵を差し向け袁術を牽制した。

曹操は、孫策を『父親の威光に助けられている小童』くらいにしか

想っていなかったが勢力を拡大する孫策を見て『自分の人物眼が狂っ

ていた』と嘆いたと言う。

孫策にとっては、反乱の続発する江東を支配するためにも朝廷の権威

を得る事が必要であった。

しかし両者の関係は微妙なものであり、共通の敵である袁術の死を

契機に提携関係は崩れてしまった。

袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍は劉勲のもとに身を寄せる

ことになる。孫策、そして曹操もこの勢力を放っておく訳がない。

自分の勢力に加える為に工作を謀る。

孫策は劉勲に対し計略を仕掛けて居城を空けさせた上で、旧袁術軍を

一挙に手に入れることに成功した。

恐らく、周瑜の策によるものであっただろうと想う。

大きな勢力となった孫策は、父の仇である黄祖に戦を仕掛ける。

黄祖は孫策の敵ではなく完膚なきまでに叩かれ、敗走するのである。

孫策は江東、江南をその支配下に治め、天下を狙えるくらいの実力者

となった。この時、孫策はまだ二十五歳であった。

しかし、孫策に残された時間は悲しい事に長くはなかったのである。

孫策は曹操が袁紹を攻めている隙に曹操の本拠である許昌攻略を計画

する。これは、まさに天下を取ろうとしていたという証拠であろう。

しかし、その矢先に呉郡の太守である許貢が謀反の素振りを見せた。

これに怒った孫策は許貢を処刑する。これにより許貢の部下が

孫策暗殺を計画し、その刺客の放った毒矢で重傷を負ってしまう。

さらに療養中に仙人の干吉(うきつ)が人民を惑わしたとして、

その首を刎ねてしまう。

後に、その干吉の亡霊にとり憑かれ、狂死したと言う説もある。

この干吉の話は『三国志演義』の中の話であろう。

孫策は後継者に自分の子の孫紹ではなく弟の孫権を指名し、

その補佐役として張昭と周瑜を指名して二十六歳でこの世を去る。

死の間際に張昭ら幕臣達には孫権の補佐を頼み、

孫権には『天下を狙うことは、お前では私のようには出来ないであろ

う。しかし優秀で才能ある人材を使いこなし江東を守っていくことに

ついては、私はお前には及ばない。この地を孫家の地とするのだ』

と言い、臣下の言を重んじ江東を固く保つことを言い残したとされる

言い方を変えれば『無理に天下を狙うな』と言う事である。

しかし、弟の孫権自身が一番良く判っていたかもしれない。

後の三国志の呉の国の基盤を創った男が孫策であった。

その若き『小覇王』の生涯は弟の孫権が長命であった事からも、

あまりにも短すぎた事が無念で悔やまれる。

孫策が長生きしていたら三国志という物語はなかったかもしれない。
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2008年02月24日

小覇王 孫策(前編)

 





























三国志という書物は人物の宝庫ともいえるくらい数多くの魅力的な

人物が登場している。

そして、その一人一人から様々な事を学ぶ事が出来るのである。

『三国志』は中国では国宝のような存在と聞いた事がある。

日本で言うならば『源氏物語』『平家物語』『太平記』などだろう

か?

少し、違うだろうか?解る方がいらっしゃったら教えてください。

さて今日は趙雲に続き、三国志の英雄の一人である『小覇王』と呼ば

れた孫策に付いて書きたいと想います。

『小覇王』とは、西楚の覇王と呼ばれた項羽になぞらえて呼ばれたと

いう。この小覇王・孫策は『江東の虎』と恐れられた孫堅の長男とし

て生まれる。

孫堅は黄巾の乱の鎮圧などで大活躍する猛将であった。

しかし、この孫堅が非業の死を遂げてしまう。

この時、孫策は十七歳であった。

そして、漢王朝の名門・袁術に仕えることになる。

袁術は孫策の能力を絶賛し、『孫策のような息子がいたら、自分は思

い残す事はなく、いつでも死ねる』と言ったくらいである。

ちなみに孫策は容姿端麗で、人との会話を好み闊達な性格であった。

袁術の元で成長した孫策は二十一歳の時に父が残した

玉璽(ぎょくじ)を担保にして袁術から三千の兵を借りて

江東平定に立ち上がる。

ベンチャーに乗り出す若者のような感じであったかもしれない。

そして、昔からの親友である周瑜と共に活動するのである。

この周瑜、孫策にとってはなくてはならない存在であった。

『刎頚の友』『水魚の交わり』など、友情を示す言葉があるが、

二人の友情は『断金(二人が心を一つにすれば金をも断ちきる力を発

揮する)の交わり』と言われたという。

この時、周瑜と共に『江東の二張』と呼ばれた賢人の張昭、張紘を

自らの幕僚に迎え、呉郡や会稽を攻め滅ぼし、

わずか五年で江東を平定したのである。

この時、二十歳か二十一歳くらいである。

彼自身、絶頂の時であっただろう。

こういうところが伊達政宗と重なるのである。

しかし政宗と違うところは現実に天下を視野に入れたかもしれない。

『自分に敵などいない』という勢いであったかもしれない。
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趙雲子龍 一身これ胆なり(後編)

 

























主君・劉備玄徳が蜀の地を手に入れ、その勢力を荊州と益州を基盤に

力を付け、天下に号令するつもりでいたかもしれない。

それが劉備と諸葛孔明の理想のシナリオであったのではないだろうか

そんな主君と軍師の忠実な手足の如く働く趙雲であったが、彼はただ

の武将ではなかった。

言い方を変えるならば、イエスマンではなかったのである。

自分の意見がある時は臆することなく言いたいことを言ったのである

『趙雲別伝』によれば、益州を支配した後に劉備が

益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした時、これに反対

したとの記載がある。

趙雲にしてみれば、先に民衆の生活の事を考えることが大切であり、

そして『富国強兵』ではないが、もっと国を豊かにしてから

勲功のある人間に論功行賞などで分配するべきだと想ったのだろう。

この時、諸葛亮はどう想ったのだろうか?

また、その後の漢中攻め『定軍山の戦い』では、

魏の猛将・夏侯淵を討ち取った『老黄忠』こと黄忠を救出し

見事な撤退戦と空城計を演じ、

劉備から『子龍は一身これ胆なり(子龍は度胸の塊)』と賞賛され、

蜀軍の中では『虎威将軍』と呼ばれるようになった。

このエピソードは『趙雲別伝』及び後の書物『資治通鑑』にも残って

いるのである。

そして、劉備に不幸が訪れる。

孫権の裏切りにより荊州の関羽が討ち取られ、

さらに張飛が自分の部下に殺される。

そんな不幸のどん底にいる劉備は怒り狂い、孫権を攻めようとするが

趙雲がこれを諫めるのである。

しかし全く聴き容れられず趙雲は諸葛孔明と共に江州に留まった。

『孫権よりも曹操を攻撃することが蜀の目標であり、孫権とは同盟を

結ぶべきだ』と言っても劉備には聴く事は出来なかった。

この時、諸葛亮孔明が反対したかどうかは定かではない。

しかし、内心は反対であったが『止める事は出来ない』と想っていた

のかもしれない。

恐らく孔明は戦後の事を考えなければならないと想ったかもしれない

そして、『夷陵の戦い』に大敗北すると、劉備はこの敗北が原因で

病死してしまう。

その後を息子の劉禅が継ぎ、国事は丞相である諸葛亮に委ねられる事

になった。

さらに孫権の呉は、この大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色

を明確にし魏に対抗する事になる。

呉の巧みな政治手腕、外交手腕である。

さて、趙雲は諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留する。

諸葛亮は斜谷街道を通ると情報を流し、魏の将軍・曹真はこれを真に

受けて大軍で押し寄せる。

趙雲はその相手をする囮となり、諸葛亮は祁山を攻めた。

趙雲は敗北したものの軍兵をとりまとめてよく守り、大敗には至らな

かった。

しかし敗北の責任として鎮軍将軍に降格されたらしい。

趙雲が降格されたかどうかは定かではないが、『趙雲別伝』によれば

諸葛亮は趙雲の功績を喜び、絹を差し上げようとしたと記されている

そして、229年にこの世を去る。趙雲の後を長男の趙統が継いだ。

261年、趙雲は順平侯の諡を追贈された。

『趙雲別伝』では姜維(きょうい)ら彼を尊敬したであろう武将達は

『柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩

序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。

趙雲に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます』と進言したという。

『三国無双』というゲームでは、まるで主役ではないかと想われるく

らい趙雲が表紙になっていたり、雑誌の特集などでも真っ先に紙面を

飾っている。それくらい、格好いい印象を受けるのである。

今でも、その人気は高いのである。それは『三国志』『三国志演義

を読んだ印象からのものでもある。

強くて格好良くて爽やかな印象である。

度胸の塊・趙雲に少しでもあやかりたいものである。
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2008年02月22日

趙雲子龍 一身これ胆なり(前編)

 



























『三国無双』というゲームで槍を振り回して大活躍する格好いい武将

である蜀の五虎大将軍の一人・趙雲子龍がいる。

『三国無双』『三国志』に出てくる趙雲は物凄く強く敵に廻したくな

い武将である。

この趙雲という武将は劉備玄徳と諸葛孔明にとっては、なくてはなら

ない武将であったと言える。

五虎大将軍の中でも最も忠実で安心して任せられる武将であっただろ

うと想う。

実力においても武芸に秀でており、『一騎当千、万夫不当』と言われ

た関羽や張飛にも劣らないと言われていた。

彼の姿を描いた画像は本当に格好いいものばかりである。

『趙雲別伝』という記録によると身長は八尺(約185p)で、姿や

顔つきは立派なものであったと言われている。

『男らしかった』ということだろう。

趙雲は初め、故郷の常山郡から官民の義勇兵を率いて『白馬長史』と

異民族から恐れられた公孫讃(こうそんさん)の配下となる。

公孫讃は名将・廬植の元で劉備と共に学んだ仲であった。

その関係から劉備と趙雲が出会ったのである。

やがて劉備が去ると、その後を追い劉備の配下となる。

劉備を自分の理想の主と認めたのだろう。

そして劉備も趙雲を厚遇し、劉備には関羽、張飛と共になくてはなら

ない存在になったのである。

そんな趙雲の勇名を一躍不動のものにした戦いが『長坂の戦い』であ

る。この戦いで武勇と忠義を大いに発揮するのである。

曹操の南征により荊州の長坂で激しい戦いを繰り広げた。

その時の混乱で、劉備の家族が魏の軍勢の中に残されてしまう。

それを知った趙雲は単騎で大軍の中を駆け抜け、甘夫人を助けだし、

さらに奥に進み、劉備の息子である阿斗後の劉禅を見つけ、自分の懐

に入れて、魏の軍勢の中を単騎駆け抜けて劉備の軍勢に戻ってくるの

である。劉備は阿斗を投げ捨て、大事な将軍を失うところであったと

趙雲に感謝したと言う。この話が本当かどうか判らない。

しかし、このとき劉備の娘二人が敵将の曹純によって捕まっていると

言われている事からもまるっきり嘘ではないだろう。

三国志演義』の中だけの話なのかもしれないが、

これが事実と想えるくらい趙雲の武勇とその人柄が表れている出来事

である。

個人的には実話であって欲しいと想うのは私だけであろうか。

『趙雲別伝』によれば、荊州平定に活躍し桂陽太守となったとされる

この時、降伏してきた太守の趙範が自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせよ

うとしたが、趙雲は『趙範は追い詰められて降ったに過ぎません。

本心はどのようなものか判らない。そして天下に女は少なくありませ

ん』と述べて、これを固辞した。色に惑わされる事もなく立派である

劉備が入蜀の時に趙雲に奥向きのことを取り締まらせたりしたことか

らも趙雲がとても厳格な性格であったのだろう。

関羽や張飛にはないものを持っていたのであろう。

そして、趙雲の活躍は劉備が蜀を手に入れた後も続くのである。
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2008年02月21日

大不忠の忠義 加藤清正(後編)







 













豊臣家の猛将、加藤清正は背面に彼の代名詞である虎と
法華経信者であり、軍旗にも記されている有名なはね題目
「南無妙法蓮華..












加藤清正は秀吉と同郷であり、木下家とは血縁関係にあったと言われ

ている。

清正と言い、福島正則、浅野長政そして弟の秀長といい秀吉の

血縁関係にあった人間には優秀な人間が多い。

さすが、秀吉が天下人になるだけの血筋である。

後世に名を残すような優秀な人間が周りにはいたのである。

清正などは秀吉が父、北政所は母同然であったという。

それ故に、家族のような結束を持っていたのかもしれない。

その為、淀殿に近い石田三成とは当然、距離を置くようになったのか

もしれない。

しかし、秀吉の血縁から清正や正則のような猛将が育つのも意外と言

えば意外である。

『賤ヶ岳の七本槍』の一人、加藤清正として秀吉の天下の為に活躍し

ていくのであるが、その後の朝鮮出兵で清正は朝鮮半島に渡るが、

蔚山城に籠城して水や食料の不足に苦しんだと言う。

その教訓が清正を『戦国時代最高の建築家』として

藤堂高虎と共に名を挙げる。

彼が後に築城する『熊本城』には井戸が百二十箇所もあり、

何年も籠城しても絶対に水がかれる事のない様に配慮されたという。

蔚山城では、苦しみながらも降伏せずに城を守り抜くのである。

そして、この城の威力が約三百年後の『西南戦争』においても実証さ

れるのである。

そんな朝鮮での戦いが更に彼の勇名を高めることとなった。

清正は朝鮮の民衆から『犬、鬼(幽霊)上官』と恐れられた。

そして朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝説が残り、

それがお座敷遊びの一つである『虎拳』という

遊びの元になったという。

また、朝鮮からセロリを日本に持ち込んだとも言われており、

セロリの異名の一つが『清正人参』という。

そして、作戦指揮や補給の問題などで石田三成と運命的な対立をして

しまうのである。

これが原因となって秀吉が死去し、前田利家が続けて死去すると

福島正則などの武闘派と共に三成を襲うのである。

本当に、加藤清正がこんな愚挙をしたのであろうか。

その中には、武断派ではあったが黒田長政や浅野幸長など

比較的冷静な判断が出来ると想われる武将もいたのである。

そういった経緯から、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方するしかなか

ったのだろうか?

直接、関ヶ原の戦いに参加しなかったのは黒田如水や伊達政宗、

前田利長などと同じであったが、皆ほとん