上杉景勝には、こんなエピソードがある。
彼が飼っていた猿が自分の真似をして部下に指図する真似をしていた
のだ。
その姿を観た笑わない主君である景勝は思わず笑ってしまったという
その姿が生涯、一度だけ人前で見せた笑顔だと言われている。
恐らく、この猿は秀吉のあやかって飼ったのかもしれない。
信長の死後、実権を握った猿こと羽柴秀吉と気脈と通じるようになる
こちらの猿も上杉家に好意的でもあったことがまた幸いした。
さらに、佐渡の支配を許され秀吉を後ろ盾に長年にわたり対立してい
た新発田重家を討ち、佐渡の支配を確立する為に景勝に反発する佐渡
の本間氏を討伐し佐渡を平定した。
そして、秀吉が豊臣の姓を名乗るようになる。
上杉家は豊臣政権の一員として活躍する事になる。
小田原合戦や朝鮮出兵などにも参陣している。
景勝だけでなく、多くの戦国武将が家督相続では苦労している。
武田信玄、織田信長、伊達政宗、そして上杉謙信もその一人である。
そして、その謙信の後を継いだ上杉景勝も例外ではなく『御館の乱』
を経て家督を継いでいる。
しかし、この景勝はもともと養父である軍神であり正義と信義の人・
上杉謙信を尊敬している。
景勝も謙信にあやかり、少しでも彼に近づきたいと想ったであろう。
豊臣政権下における、その後の景勝は謀略を好まず礼儀正しく行動し
たのである。そんな景勝を秀吉は信頼したのである。
豊臣家五大老の一人であった小早川隆景が死去するとその後釜に就任
する。そして蒲生氏郷が死去した後、蒲生氏が改易され、その代わり
に会津に転封されて一二〇万石に加増される。
これは、伊達政宗など東北諸大名の監視と牽制のための秀吉による
配置であり、信頼の証でもあったかもしれない。
また絶対に裏切らないし、それだけの力があると認めていたのであろ
うと想う。
そして、徳川家康に対しての配置でもあっただろう。
この時、米沢城に直江兼続に三十万石が与えられる。
これは、直江兼続を自分の直属の家臣にしたかった秀吉の命によるも
のであったと想う。
景勝もまた、秀吉の恩義に報いようとした。
秀吉が死去すると、直江兼続が石田三成と懇意にあった事などの経緯
から徳川家康と対立する。
この時、天下を狙う家康の野望を潰そうと考えていたのである。
謙信公以来の義侠心が黙っていられなかったかもしれない。
慶長五年(一六〇〇年)になると、景勝は領内諸城の補修を命ずる。
鶴ヶ城に変えて会津盆地のほぼ中央に位置する神指に城の建築を命ず
る。
家康はこれらの景勝の行動を上洛して申し開きをするように召還命令
を出す。しかし、上杉景勝と直江兼続はこれを拒否する。
この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。
この際、直江兼続による挑発的な返答が家康の会津征伐を煽ったとさ
れる。有名な『直江状』である。
家康は大軍を率いて景勝討伐に会津へ出陣する。
景勝は家康軍の対応にあたる。そんな時に家康の留守中に三成らが
畿内で挙兵し、家康が一部の兵を残し畿内へ戻った。
本来ならば、この時に三成と呼応して東西から家康を挟撃する予定で
あったといわれているだが、家康は宇都宮に陣を敷き様子を見守った
為に、この作戦は実行出来なかった。その後、家康やその主力軍がい
なくなると東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った。
しかし、無念にも三成ら西軍が敗れた。
景勝も家康に降伏することを余儀なくされた。
慶長六年(一六〇一年)、景勝は直江兼続と共に上洛して家康に謝罪
し上杉家の領土の大半を召し上げられた。
出羽米沢三十万石藩主として減封されるが上杉家は存続が許された。
もし、家康と景勝が直接戦っていたら、謙信以来の上杉軍の戦いぶり
が見られたかもしれない。
そして、それは上杉景勝と直江兼続の望むところであっただろうと想
う。謙信公にその戦いぶりを存分に見せたかっただろう。
減封後、宰相の直江兼続と二人三脚で米沢藩の藩政に力を入れた。
減封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず家臣をクビに
しなかった。そして、ほとんどの家臣達が上杉家を離れなかった。
これが後世の米沢藩の元凶になり財政難を招く事になる。
そして中興の祖・上杉鷹山の登場を待つ事になる。
慶長十九年(一六一四年)からの『大坂冬の陣』では徳川方について
先鋒として活躍した。夏の陣では京都警備を担当する。
元和九年(一六二三年)三月二十日に米沢で死去する。
享年六十九歳で、その波乱の人生を閉じた。
『天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおい
て他にいない。そして義を貫く人物は景勝殿をおいて他にはいない』
と景勝を評価した男が傾奇者・前田慶次郎であった。
























































