2008年03月31日

裏切りの猛者 呂布奉先(後編)

 



































中国の今を生きる人々は呂布の事をどう想っているのだろう。

十年くらい前に中国の人に項羽は『中国史上で一番強い将軍』である

と聞いた事がある。

『関羽は中国語でどう発音するのか?』

『諸葛亮孔明はどう想われているのか?』

なんて事を聞いた事がある。どんな解答を得たか忘れたが、

四千年の歴史がある中国の中でも、

呂布奉先はやはり特殊な存在であると想う。

呂布には、何故か中国人離れした感じがあるように想う。

何よりも自分の本能のままに生きた武将であったのだ。

そんな呂布が仁の人である劉備を頼る事になる。

劉備は呂布を快くかどうかは疑問だが、迎え入れるのである。

関羽や張飛などは恐らく反対したであろう。

それにも関わらず、とにかく劉備は呂布を迎え入れ、

義兄弟の契りを結ぶのである。

この時点では、劉備は四兄弟となるのだろうか。

だが呂布のある意味、本領を発揮する機会を与えた事にもなった。

得意の『裏切り』である。

快く自分を迎え入れてくれ、義兄弟でもある劉備を裏切るのである。

曹操の策に乗ったのか袁術の策に乗ったのか、

いろんな説があるのだが、

劉備から徐州を奪い、自分のものにしてしまう。

行き場を無くしてしまった劉備は仕方なく呂布に従う羽目になり、

小さな都市を与えられ、その場に駐屯する事になる。

関羽や張飛は腸の煮えくり返る想いであったに違いない。

そんな劉備が袁術に攻められた時、劉備は呂布に救援を要請する。

呂布は、その要請を受け入れ出陣すると

両陣営を和解させようとしたのである。

三国志』の中での呂布の見せ場の一つである。

『義弟が困っているので助けに来た。私は戦を好まない。

和解を喜ぶ性格である。』と

よくもまぁ、抜け抜けと言ったものである。

そして、戟(げき)を陣営の門に立て、

『私が戟を射るのを見よ。一発で当たれば兵士を連れて帰れ。

当たらなければ、このまま戦え。』と叫び、矢を放った。

その矢は見事、戟に命中した。

それを見た袁術軍は度肝を抜かれ、

戦意を失い引き上げていったのだろう。

その後、袁術に縁談を呂布に持ちかけるが、この話は破談に終わる。

そして、袁術が呂布を攻めたり、

その袁術と呂布が結び劉備を攻めたりと

『昨日の敵は今日の友』状態が続く中で、曹操が動く。

曹操、劉備連合軍と呂布、袁術連合軍の戦いが始まる。

そして劉備が破れ、劉備の妻子が捕虜になる始末である。

そこで、曹操は本格的に大軍を動かし、徐州に攻め込んだ。

武勇のみに優れ知略も人望もない呂布は次第に窮地に追い込まれる。

そして部下に裏切られ、呂布は陳宮や高順と共に捕縛され

曹操の元に差し出される。

余談であるが、この時、彼らと一緒に捕縛された武将の中に

呂布の部下であった名将・張遼がいた。

後に曹操の部下となり大活躍するのである。

呂布は命乞いをするが、

劉備の『丁原や董卓の例をお忘れか。また裏切られますぞ。』

と言うと、曹操も処刑を決意するのである。

呂布は劉備に対して、『この大耳野郎!!』と口汚く罵り、

首を斬り落とされたのである。

自分の二人の養父を殺し、劉備を裏切り、そして自分の武勇のみで

乱世を生き抜いた呂布奉先。

最後は自らの部下に裏切られ、その生涯を終えたのである。

三国志前半の英雄の一人である呂布の存在は『三国志演義』を読む者

にも強き影響を与えたのは間違いないだろう。

『三国志』や『三国志演義』の呂布は流れ星の如く、

自分の本能のままにその生涯を駆け抜けたのである。

そんな生き方も何故か魅力的に感じるのである。
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2008年03月30日

裏切りの猛者 呂布奉先(中編)

 




































私は、呂布と似てるなと比較してしまう武将がいる。

私だけではないかもしれないが、『西楚の覇王』こと項羽である。

呂布と項羽、なんとなく似ている様に感じるのである。

両者とも、ずば抜けた武力の持ち主であり、

その武勇は他の武将より群を抜いていた。

呂布は三国志の登場する武将の中で最強であり、

項羽は中国史上最強だと想う。

それ故事実上、王にもなった項羽の方が上かもしれない。

だが、三国志に出てくる武将も呂布の他に関羽、張飛、典偉や馬超、

趙雲など数え切れないほどの武勇を誇った武将の宝庫である。

それは、中国史上でも稀に見る現象ではなかっただろうか。

楚漢時代には項羽の他に武勇を誇った武将は英布など数人いるが、

三国志の時代と比較すると少ない気がする。

それだけ、三国志が有名であるせいもあるのだろうが。

また項羽は呂布のように裏切りを重ねたりはしなかった。

まぁ、三国志の呂布と項羽を比較するのは無理があるかもしれないが

個人的に、『ただ何となく似ている』と想うのである。

さて、三国志の項羽とは言わないが、

呂布は董卓の養子となり行動を共にする。

洛陽で董卓が権力を握り、やりたい放題、傍若無人な振る舞いで

多くの人々の恨みを買ったが、

いつも側に呂布がいたために誰も逆らうことが出来なった。

そんな時に、反董卓連合が結成される。

そして、その連合軍との戦いで呂布は大活躍するが、支えきれずに

董卓は洛陽の都を焼き捨て、長安に遷都するのである。

そこでも、董卓は相変わらずで暴政は続く。

そこで、国の行く末を案じた王允の登場である。

三国志演義では王允は自分の養女を利用して董卓と呂布を翻弄させ、

最終的に呂布により、董卓を殺害させる。

『美女の計』である。

実際はどうだったのだろうか。

呂布は自分が天下を握りたくて、

その野望を王允に利用されたのではないかと想う。

董卓を殺害した後、董卓の軍事力の基礎であった郭ら涼州の軍勢が

首都長安に侵入してきた。

呂布はしばらく応戦したが破れ、数百騎のみを率いて逃亡した。

そんな天下の武勇を誇る呂布が諸国を放浪する事になる。

まず、袁術を頼ったのだが、断られてしまう。

その後も、袁紹や張楊を頼ったが、いずれも受け入れられなかった。

そして呂布に幸いした事は、参謀として陳宮が付いた事であった。

元々、曹操の部下であったが、曹操に不満を持っていた。

呂布は陳宮の『曹操のえん州を奪いましょう』という

進言を受け入れ、この地を手に入れる。

しかし、曹操も黙っていない。

二年以上、曹操の軍と戦うが陳宮の策を無視したため、

呂布は曹操に破れるのである。

そして今度は、徐州にいる劉備玄徳を頼って行くのである。
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2008年03月29日

裏切りの猛者 呂布奉先(前編)

 






























名将・丁原の養子であった呂布は董卓に

名馬で有名な赤兎馬を与えられる事を条件に

丁原を殺し董卓の元へと奔る。

そして、董卓は呂布を気に入り彼を養子にする。

彼の実の両親はどんな人間であったのだろうか。

そして、呂布は幼少の頃にどのような環境で育ったのだろうか。

呂布に関しては、三国志の中で一番強い武将というイメージが強い。

そんな彼がどのように成長してきたのかは、とても興味深い。

裏切りを繰り返し、自分の想うがままに行動する呂布。

さらに、そんな彼は何を想い、何を考えて生きていたのだろうか。

自分の野望を果たす為に行動していたのだろうか。

では、その野望とは、どのようなものだったのだろうか?

それとも、ただ単に戦いを求めて

本能のままに生きただけだったのだろうか。

呂布は腕力が誰よりも強く、弓術や馬術にも優れていたため、

前漢時代に活躍した李広になぞらえて

『飛将』と呼ばれていたらしい。

『人中に呂布あり、馬中に赤兎あり』と賞された。

そんな呂布であったが知謀に欠け、敵対する者からでも

『利』で誘われると、それに乗ってしまうという単純で節操のない、

それでいて物欲の強い性格であったのだ。

どうしようもないとしか言い様が無い。ただの『ならず者』である。

それ故に、どうしても自分の周辺

諸葛亮孔明のような優れた部下が必要だったのだろう。

しかし、その性格ゆえに、優れた部下の進言にも

耳を貸さなかったかもしれない。

ワンマン社長タイプだっただろう。

だが、その性格は上に立つものではなかったのである。

呂布奉先について次回も続きを書いてみたいと想います。
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2008年03月27日

山形の謀将 最上義光 (後編)

 

 




























最上義光は名君に備えた資質を持っていた。

卓抜した行政手腕を持っており、領民のための政治を行っていた。

彼は領民に対して年貢の負担を低く定め、

領民を苦しめるような政治は一切行わなかった。

そのせいか、義光の時代に農民一揆などの暴動は全く起きていない。

彼がいかに領民を愛していたかがわかる。

彼の統治下における善政はのちに

『最上源五郎は役(えき)をばかけぬ』という歌になるほどであった

そして、彼の死後も長く山形の民に慕われたという。

そんな義光は秀吉の死後、家康に近づくようになる。

駒姫の一件もあったことだろう。

間もなく、関ヶ原の戦いが起こると徳川家康の東軍に味方する。

関ヶ原に軍勢は送らなかったが、その代わりに伊達政宗と共に

強敵である上杉景勝と直江兼続を牽制しなければならなかった。

戦いは、直江兼続の軍勢が最上領に侵攻してきたことから始まる。

しかし、最上の江口光清、志村光安、楯岡満茂などの

武将は善戦した。

そして、後に伊達の援軍が来たりしたが、

関ヶ原の戦いで西軍が負けた事を知った

直江兼続は米沢城へ退却した。

戦後、義光はこの功績により庄内地方などを加増され、

その領土は五十七万石となった。

最上義光の行政手腕により、領内はとても繁栄したという。

『本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様』で有名な本間氏

の酒田港の発展の基礎を創ったのも義光の時代であった。

そんな、名君・最上義光の晩年は悲惨なものであった。

一説には家康の威光に従って嫡子の義康を廃嫡して次男の家親に家督

を譲ったとも言われているが定かではないだろう。

しかしこれは、家康に近習として仕えていた家親を気に入っていた為

に、家康の無理な命令にも従わざるおえなかったのかもしれない。

稀代の謀将である義光も、これにはどうする事も出来なかったのかも

しれない。

または、義光自身も最上を継ぐには家親の方が

最上家の為になると想ったのかもしれない。

そして、その嫡子である義康が暗殺されるのである。

これは、義光によるものであるとか家親派の家臣によるもの、

幕府によるものといろいろな説が出ているが

真相ははっきりとは判らないのである。

これには、義光も大変ショックだったようで

駒姫の時と同様、大変手厚く葬っているのである。

慶長十八年(一六一三年)、義光は病身でありながら

江戸の秀忠に謁見し、その後駿府に行き、

家康に拝謁して最上家の事を託した。

最後の長旅であり、最後の時を迎えようとしていた。

明けて慶長十九年(一六一四年)一月十八日、山形城に帰って来て

まもなくして、この世を去った。

享年六十九歳であった。

義光の死後に後を継いだ家親は義光の死後三年後に急死した。

このため、義光の孫・最上義俊が藩主となったが、

後継者をめぐる、お家騒動が起こり、義光の死後、

わずか九年後の元和八年(一六二二年)に改易となった。

これを『最上騒動』という。

義俊の死後はさらに石高を一万石から五千石に減らされ、

最上家は大名の座から消えたが、

『幕府の旗本の高家』として明治維新を迎えた。

たくさんの血を流し、苦労の末に築いた最上王国を

義光の死後まもなく取り潰されて、さぞ、無念であっただろう。
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2008年03月26日

山形の謀将 最上義光(中中編)

 


























出羽地方を統一を目指していた最上義光であったが、

天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉が小田原北条氏の征伐の兵を挙

げる。

義光は参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し

本領二十四万石の所領を安堵される。

この時、義光は小田原攻めの直前に没した父であり

時には敵でもあった義守の葬儀のため甥の伊達政宗より

さらに遅参しているが、事前に親交のあった

徳川家康のとりなしにより咎められることなく許されるのである。

この時、義光も政宗も自分の限界を感じざる負えなかっただろう。

そして、今までのように自由に勢力を拡大する事も

不可能になるのである。

ただ、仙北一揆に乗じて小野寺氏の領地を領有した。

伊達政宗も最上義光も秀吉に恐怖を抱かざる負えなかっただろう。

最上義光だけではないが当然、秀吉の機嫌を取るようになった。

義光の凄いところは家康には、

次男の家親を近習として使えさせたり、

秀吉だけでなく家康に対しても手を打っているところである。

義光も政宗も、お互いに機を見るに敏という感じで行動するが、

義光にとって、それが仇になってしまった出来事があった。

まさに彼にとっては痛恨の悲劇であった。

大河ドラマでも紹介されていたが、

時の関白である豊臣秀次に側室として差し出していた

愛娘の駒姫が秀次の失脚により秀次共々、

処刑されてしまうのである。

冷血漢のような男も、この時ばかりは

流石に涙して酷く落胆したのである。

本当に、可愛い娘であったのだろう。

そして、彼の読みとしては秀吉の後継者である

秀次に嫁がしておけば、最上家の安泰と駒姫の幸せは

約束されたものだろうと読んでいたのかもしれない。

大河ドラマで見た時も、この時は本当に義光の父としての

想いが伝わってきた。彼もやはり、父親だったのである。

最上義光という人物、調べてみると中々興味深い武将である。
posted by よしの at 22:19| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

山形の謀将 最上義光(中篇)

 

http://img.accesstrade.net/m/m_img/57613/200801/120_60.gif


























最上義光という武将は、大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響もあるが、

とても不気味に感じるのである。

彼を演じた原田芳雄氏の演技も迫力があったせいか、

とても印象に残っている。しかも、暗い陰険なイメージである。

主人公の伊達政宗のライバルという立場もあっただろうが

とても不気味な謀略を好む武将のように感じる。

そして当時、その大河ドラマの影響が最上氏の山形に影響したという

何よりも、山形の英雄として沢山の功績を挙げている

最上義光のイメージを変えてしまったという。

地元の関係者は不満だったようである。

義光を斉藤道三や松永久秀、宇喜多直家のような

『出羽の梟雄』という実際の人物像とは

かけ離れたイメージを定着させてしまったようである。

小説ゲームなどにも影響したのである。

壮絶な家督争いを勝ち抜き、最上家の当主となった義光は

すぐに出羽の統一を目指すのである。

そのために、周辺の豪族を次々に従わせていった。

天正五年(一五七七年)には織田信長に謁見し

『出羽守』に任じられたという文書が近年発見されている。

これは中央と交渉し権威を利用したのである。

彼の本領であるのだが、正々堂々と戦うよりも

謀略や調略を多く使い、かなりアコギな事をしているのである。

私が印象に残っている謀略は白鳥長久をだまし討ちである。

義光の嫡男である義康と長久の娘との婚儀をすすめて

油断をさそい義光自らは大病と偽って、

長久を山形城内に誘い込んで暗殺するのである。

そして、その白鳥長久の居城である谷地城を攻め落とすのである。

また、武藤氏が支配する庄内に侵入し仲裁に入った伊達政宗の意見を

聞き入れたかのように見せかけて再び攻め込んだのである。

『目的のためなら手段を選ばぬ男』であるのだ。

さらに伊達家との抗争も頻繁に起こるのである。

義光の妹の義姫が政宗の母親であり、

最上と伊達は姻戚関係にあるのだが、

そんな事は全く関係なく常に両家は一触即発の状態になるのである。

そんな状況を創るのは、決まって義光であったようだ。

そして、その都度、義姫が仲裁に入っているのである。

だが、後に義姫にとっても悲劇が起こるのである。

義姫は、息子の政宗を毒殺しようとするのである。

これは未遂に終わったが、兄の最上義光が義姫をそそのかし、

裏で糸を引いていたのである。

『待てよ』良く考えると、最上義光はやはりイメージどおりの謀将で

あるように想う。この時点では。
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2008年03月24日

山形の謀将 最上義光(前編)

 

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戦国時代もクライマックスに向かいつつあり、

終盤に入っていた頃、日本の北である東北地方でも

戦国乱世を迎えていたのである。

奥羽の武将は日本の中でも畿内や関東などとは

違っているような雰囲気を持っているように想う。

それでも、天下に通用するであろう大名が何人か出てくる。

南部信直や津軽為信、芦名盛氏などである。

しかし、そんな中でも突出した能力を持っていた武将が二人いた。

伊達政宗と最上義光といえると想う。

武田信玄と上杉謙信のような関係だったかもしれない。

いや、武田信玄と武田信玄のような関係といえるだろう。

政宗も義光も戦国大名としての野心と卓抜した政治感覚を持っていた

この両者はライバルとして戦国乱世を生き抜くのである。

この二人を比較すると伊達政宗が有名になり光であり、

最上義光は政宗ほどの派手さは無く

存在そのものも何処か陰があるように想う。

つまり最上義光は陰であろう。

義光の最上氏は出羽の弱小勢力だった頃、

伊達氏の支配を受けていた時もあり、

属国のような扱いを受けていたらしい。

伊達家に家督相続を邪魔されたり、

そんなことから伊達家に恨みを抱いていたのである。

政宗の母は最上家の出であり、義光の実の妹である。

その為、最上義光と伊達政宗は叔父と甥の関係である。

しかし、仲は良くなかったのである。

最上氏は、足利一門の斯波氏につながる名族であり、

大崎氏が奥州探題として奥州に来た時に、

その次男が出羽の最上郡に移り住んだのが

最上家の始まりだといわれている。

しかし、時代は戦国乱世である。

義光が家督を継ぐまでには、簡単ではなかったのである。

長男で二十五歳の義光は父である最上義守に幽閉されていた。

理由は定かではないが、父である義守は義光を嫌っていたらしい。

しかし、何故だろうか?

何処の家でも長男は嫌われるものなのだろうか。

武田信玄、大友宗麟そして伊達政宗もそうである。

長男は親から引き離されたりして成長したりする為

愛情が次男達に移ってしまうのだろうか。

戦国ならではの様々な理由によるのだろう

そして、義光は立ち上がり、家督争いが起こり、

父の義守を隠居に追い込み、弟の義時を自害させる。

この家督争いにも当時の伊達家当主である

伊達輝宗が介入してきたりするなどして、

義光が家督を継ぐまでには本当に苦労したのである。

元亀元年(一五七〇年)、最上義光は最上家の当主となったのである

この年、織田信長は『姉川の戦い』で

浅井、朝倉軍を撃破したのであった。

天下の争いを横目に義光は当面の強敵である

伊達政宗、芦名盛氏や上杉景勝などと

戦わなければならないのである。

それと同時に最上家の勢力拡大を考えていたのである。

これからが、最上義光の本領が発揮されるのである。
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2008年03月23日

乞食の黒田八虎 後藤又兵衛(後編)

 





















奈良県宇陀市大宇陀区本郷に樹齢三百年ともいわれる

それは見事な桜の木がそびえ立っている。

またの名を『又兵衛桜』という。

この桜の木は後藤又兵衛が再起するチャンスを待って

隠れ住んだ屋敷跡に立っているという。

一説には、大坂の陣を生き延びて、

この地に隠れ住んだとも言われている。

それにしても見事な桜であり、

その姿は後藤又兵衛という人間そのものを表現しているかの如く、

その地に立っている。

黒田家で確固たる地位と存在感を築いていた又兵衛であったが、

黒田如水が死去すると、すぐに黒田家を出て行くのである。

今までの築き上げた栄光や待遇を捨てて、出て行くのである。

よほど、如水の息子である長政と合わなかったらしく、

従う気が全くないという感じであっただろう。

長政も、今までの又兵衛との経緯から

彼を止める事はしなかったのだろう。

しかし、又兵衛を本当に恨んでいたようである。

この頃、後藤又兵衛の名は有名で世に轟いていた。

後藤又兵衛も黒田家を出ても、

他家で仕官出来ると想っていたようである。

細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康などが

後藤又兵衛の武勇を惜しみ、召抱えようとするが、

長政がこの仕官を阻止した。

そのせいで又兵衛は、家族と共に浪人生活を強いられる事になる。

それは、長く辛いものであり、生活は大変逼迫したといわれる。

だが、時代が又兵衛に死に場所を用意していたのである。

一六一四年、大坂冬の陣が起こる。徳川家と豊臣家の戦いである。

徳川家康から播磨一国五十万石を条件に誘われたが、

又兵衛はこれに感激するも、

この申し出を拒絶して大坂城に入城する。

『秀頼公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで

御恩に報いよう』と語ったという。

冬の陣では名将・木村重成と協力して守備し、

巧みな用兵で上杉勢と佐竹勢を手玉に取ったという。

そして、冬の陣が両軍の和議により終結する。

一六一五年、大坂夏の陣が再び、起こる。

又兵衛は先鋒として二千八百の軍勢を率いて出陣する。

そして河内『道明寺の戦い』で徳川方の奥田忠次らを討ち取るなど、

寡兵ながらも奮戦する。

奥州筆頭・伊達政宗の軍勢との乱戦中、

智将・真田幸村と猛将・毛利勝永の軍と連携することになっていた。

明朝、三人の役者達は『家康の首を挙げよう』として

決別の盃を酌み交わしたという。

しかし、又兵衛の軍勢が霧の発生により行軍に手間取っている間に、

『鬼の小十郎』こと伊達家の片倉重長率いる鉄砲隊に銃撃された。

腰を撃たれ歩行不能となった又兵衛は最後の時を迎えた。

部下に介錯を命じて自刃したという。

又兵衛の軍勢は、又兵衛の死を知っても『又兵衛に続け』と

敵陣に突入したという。

また、後藤又兵衛の実力を一番認めていたのは、

誰あろう黒田長政であっただろう。

又兵衛が大坂に入ったのを知った長政は

『大坂方は最高の人材を手に入れた。

今の大坂方には又兵衛に勝る将はおるまい』といったと言う。

名君としても名高い黒田長政と智勇兼備の後藤又兵衛、この二人が

もっと仲良くすることが出来たならば、

後のお家騒動など起こらずに、

黒田家を磐石なものに出来たかもしれない。

『又兵衛桜』です。?o?b?h?i???????????j?o?b?h?i???????????j


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2008年03月22日

乞食の黒田八虎 後藤又兵衛(前編)

http://img.accesstrade.net/m/m_img/57613/200801/120_60.gif

 



























司馬遼太郎氏の小説で『軍師二人』という作品がある。

その軍師の一人が『日の本一の兵』と後世に勇名を残した

真田幸村であり、もう一人の軍師が後藤又兵衛という猛将である。

この二人の名前を聞くと、やはり大坂の陣の活躍が思い浮かぶ。

後藤又兵衛という武将は、豪快なイメージがあり、

その戦いぶりも勇猛であり大坂の陣でも活躍をする。

そんな又兵衛は元々は、豊臣秀吉の軍師であった

智将であり謀将の黒田如水の家臣であった。

その経緯は又兵衛の父が幼い頃に戦死しており、

その幼い又兵衛を如水が引き取って育てたのである。

そして、その如水の恩義に報いるが如く、

又兵衛は彼の手足として縦横無尽に活躍するのである。

如水はそんな又兵衛を厚遇していくのである。

それ故に益々、又兵衛は活躍し、関ヶ原の戦いでは石田三成の軍勢を

蹴散らし、その武名を世に轟かせた。

その活躍により一万六千石という陪臣としては

破格の恩賞が与えられるのである。

しかし、人生とは不思議なものである。

又兵衛は如水を心から慕っており尊敬し彼のためなら

死をも惜しまないと想った事だろう。

それに比べ、如水の息子の黒田長政とは何故か相性が悪かった。

朝鮮の役での事である。

長政は敵将と格闘し、組み合ったまま河の中へ落ちてしまった。

それを観ていた小西行長の家来が緊急事態を知らせるが、

又兵衛は日の丸の軍扇を片手に見物していたという。

長政が何とか、敵を討ち河から上がってくると又兵衛は

『我らの主君は武勇に優れ、相手に引けをとるようなお人ではござら

ぬ。手出しは無用』と言ったという。

この又兵衛の行動は長政を全く主とは認めていないという感じである

そんな又兵衛を長政は生涯、恨んだという。

元々、父である如水が又兵衛を溺愛することにも嫉妬していたみたい

である。

関ヶ原の戦いでも、又兵衛は黒田長政率いる

黒田軍の家臣とは名乗らず、『後藤又兵衛軍』として戦ったという。

この二人がもっと仲良くしていれば、黒田家も変わっていただろう。

そして何よりも後藤又兵衛の運命も違ったものになっていただろう。

また、そんな二人を黒田如水はどんな想いで観ていたのだろうか。

それが一番、大切な事であっただろう。

如水次第で又兵衛の長政に対する振る舞いも

変わったのではないだろうか。

そんな簡単なものではなかったのだろうか。

幕末の英雄・西郷隆盛が島津斉彬に抱いた想いと島津久光に抱いた

想いの違いが合ったように、さすがの如水でもどうする事も

出来なかったのかもしれない。

さて、後藤又兵衛の物語はまた次回に書きたいと想います。
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