修羅場を潜り抜け、地獄を見た男は強いものである。
そして、失敗を経験している人間は
同じ轍を踏まないように注意するのだろう。
例えば、『ホリえもん』こと堀江貴文氏や
『村上ファンド』の村上世彰氏が復活したら、
どのような仕事をするだろうか。
その前に、当時のように社会に受け入れられるだろうか。
個人的な見解ではありますが、二人とも復活すると想います。
中国ではケ小平氏が何度も失脚している。
そして復活し、
その活躍により今の中国の基盤を築いているのである。
仙石秀久も相当、苦労したのであろう。
『同じ轍は絶対に踏まない』と心に誓ったはずである。
豊臣秀吉が此の世を去ると、仙石秀久は徳川家康に接近する。
間もなく、関ヶ原の戦いが起こると秀久は徳川秀忠の軍に従軍する。
秀忠の軍勢は中仙道を進み、信州上田城の真田昌幸を攻めた。
しかし、ご存知の通り城は落ちなかったのだが、
そこで、秀久は『私を人質に出していただき、進軍してください。
自分が死んでも東軍が勝てば本望です。』と進言した。
この発言に秀忠は大変、感激したという。
また、関ヶ原に間に合わなかった秀忠の為に
家康に謝罪しているのである。
それ故に、後に秀忠が将軍になってからも
秀久を大切に扱ったといわれている。
ここで、想う事は彼が
ただの『猪武者』ではなかったということである。
それは修羅場を潜り、苦労を経験した事により
身についた身の処し方だったのかもしれない。
秀吉の生存中から家康に近づき、
秀吉の死後も更に家康や秀忠に近づいたところなどは
世の中の動きや勢いなどを見る眼が確かだった証拠だろう。
それは、生き残る為に武将には必要な能力であった。
徳川政権下では、小諸藩主として国を治めるのであるが、
彼の治世下で農民達に過酷な課役を与えるのである。
そのため信州佐久地方では
領民の大部分が逃散するという失態を犯す事となる。
また、小諸城とその城下町を現在のようにしたのは秀久である。
また、街道の伝馬制度や宿場の整備など治績を残した。
蕎麦を特産品にしようとしたとも言われている。
そして慶長十九年(一六一四年)、
江戸から小諸へ帰る途中に発病し、
此の世を去る。享年六三歳であった。
彼は豊臣家の滅亡を見ずに此の世を去った事になる。
彼の死後、千石氏は信州上田や但馬出石(いずし)に転封される。
お家騒動を起こしたりするが、
何とか粘り強く明治の世まで生き残ったのである。
『決してあきらめない』という精神が
千石家に代々伝えられたのかもしれない。
不屈の精神で復活した武将として、
もう一人挙げるとしたら柳川藩の立花宗茂であろう。
諦めない限り、復活出来るのである。
そう信じて、失敗を恐れずに
現代に生きる我々もあやかりたいものである。
























































