2008年04月30日

不屈の武将 仙石秀久(最終回)










修羅場を潜り抜け、地獄を見た男は強いものである。

そして、失敗を経験している人間は

同じ轍を踏まないように注意するのだろう。

例えば、『ホリえもん』こと堀江貴文氏や

『村上ファンド』の村上世彰氏が復活したら、

どのような仕事をするだろうか。

その前に、当時のように社会に受け入れられるだろうか。

個人的な見解ではありますが、二人とも復活すると想います。

中国ではケ小平氏が何度も失脚している。

そして復活し、

その活躍により今の中国の基盤を築いているのである。

仙石秀久も相当、苦労したのであろう。

『同じ轍は絶対に踏まない』と心に誓ったはずである。

豊臣秀吉が此の世を去ると、仙石秀久は徳川家康に接近する。

間もなく、関ヶ原の戦いが起こると秀久は徳川秀忠の軍に従軍する。

秀忠の軍勢は中仙道を進み、信州上田城の真田昌幸を攻めた。

しかし、ご存知の通り城は落ちなかったのだが、

そこで、秀久は『私を人質に出していただき、進軍してください。

自分が死んでも東軍が勝てば本望です。』と進言した。

この発言に秀忠は大変、感激したという。

また、関ヶ原に間に合わなかった秀忠の為に

家康に謝罪しているのである。

それ故に、後に秀忠が将軍になってからも

秀久を大切に扱ったといわれている。

ここで、想う事は彼が

ただの『猪武者』ではなかったということである。

それは修羅場を潜り、苦労を経験した事により

身についた身の処し方だったのかもしれない。

秀吉の生存中から家康に近づき、

秀吉の死後も更に家康や秀忠に近づいたところなどは

世の中の動きや勢いなどを見る眼が確かだった証拠だろう。

それは、生き残る為に武将には必要な能力であった。

徳川政権下では、小諸藩主として国を治めるのであるが、

彼の治世下で農民達に過酷な課役を与えるのである。

そのため信州佐久地方では

領民の大部分が逃散するという失態を犯す事となる。

また、小諸城とその城下町を現在のようにしたのは秀久である。

また、街道の伝馬制度や宿場の整備など治績を残した。

蕎麦を特産品にしようとしたとも言われている。

そして慶長十九年(一六一四年)、

江戸から小諸へ帰る途中に発病し、

此の世を去る。享年六三歳であった。

彼は豊臣家の滅亡を見ずに此の世を去った事になる。

彼の死後、千石氏は信州上田や但馬出石(いずし)に転封される。

お家騒動を起こしたりするが、

何とか粘り強く明治の世まで生き残ったのである。

『決してあきらめない』という精神が

千石家に代々伝えられたのかもしれない。

不屈の精神で復活した武将として、

もう一人挙げるとしたら柳川藩の立花宗茂であろう。

諦めない限り、復活出来るのである。

そう信じて、失敗を恐れずに

現代に生きる我々もあやかりたいものである。
posted by よしの at 22:12| 千葉 ????| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月29日

不屈の武将 仙石秀久(第三回)










仙石秀久の肖像画の横に立っている馬印には

『無』という文字が書いてある。

そんな馬印が彼の側には立っている。

どんな心境でその馬印を横に立てていたのだろうか。

その肖像画がいつの時代のものかは判らないが、

自分の人生と心境を表現したかったのかもしれない。

『無』からのスタート、『無』の境地など、

いろいろな意味からこの馬印を側に置いたのだろう。

讃岐高松に十万石の所領を秀吉より拝領した秀久である。

堂々たる豊臣家の大名になったのだ。

秀吉も柴田勝家を討ち、畿内を平定していき、四国も平定した。

そして、次の目標は九州であった。

その敵は、南九州を中心に割拠し、

今や九州全体を席巻する勢いの

鎌倉以来の名門・薩摩の島津家とその当主である島津義久であった。

そこで豊臣秀長らと共に、

仙石秀久は十河存保(そごう まさやす)や

長宗我部元親(ちょうそがべ もとちか)ら四国の軍勢を

軍艦として率いて九州に渡り、島津と相対した。

恐らく秀久は少し有頂天になっていたかもしれない。

有頂天になり、勢いに乗っている彼は、

この九州征伐でも活躍しようと想ったことだろう。

そこで、功を焦り、無謀な突撃を敢行した。

さすが、『猪武者』である。

対するは、島津義久の弟で戦上手でもある島津家久の軍勢であった。

この家久に仙石秀久率いる軍勢は大敗北を喫してしまう。

島津軍の強さを想い知らされた瞬間でもあった。

この戦いで、長宗我部元親の長男である信親や十河存保など

有力な武将が戦死してしまう。

さらに、いけなかったのが当の秀久が他の軍勢を残して

小倉城に撤退してしまう。

そして、すぐに自分の所領である讃岐に帰ってしまう。

これは、大きな醜態であった。

これに、激怒した秀吉は彼を許さなかった。

所領を没収し、高野山に追放し謹慎を命じている。

この一度の大きな失敗で彼は大名から

ただの一武将いや浪人といってもいいだろう。

まさに、天国から地獄へと落ちてしまった。

しかし、彼は諦めなかった。

彼の根性と彼の持っている粘り強さが、

もう一度、のし上がってやろうという気持ちを持っていたのである。

不屈の精神がその体の中には流れていたのである。

そして、その機会を待っていた。

その機会は意外と早くやってきたのである。

小田原征伐』が始まる。

秀久は、この時期、豊臣政権下の武将となった

実力者である徳川家康に近づいたのだろう。

家康の斡旋により、豊臣秀吉の軍勢に加えてもらう事ができた。

鈴を陣羽織の一面に縫いつけるという大変派手な姿で一目を引いた。

彼の側には『無』の馬印が立っていた。

そして、この時に小田原城の入り口の一つを占拠する活躍を見せる。

さらに、奮戦して抜群の武功を立てたのである。

ちなみに、箱根にある仙石原は彼の活躍に

ちなんで名付けられた地名であると言う。

この小田原征伐の活躍により、信州小諸五万石を与えられる。

ここに、大名・仙石秀久が復活した。

どんな心境であっただろうか。

さぞ、感無量であっただろう。

そして、もう少し仙石秀久の物語に付き合っていただきたい。
posted by よしの at 15:53| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不屈の武将 仙石秀久(第二回)







仙石秀久(せんごくひでひさ)と言う武将は

あまり有名ではないかもしれない。

私も名前は知っていたが、どういう武将なのかは知らなかった。

しかし『センゴク』という漫画の主人公として取り上げられた事に

興味を持ち書物を読んだり、ネットで調べたりすると

凄く魅力的な武将で

その精神は現代の手本にもなるような気がした。

よく、ベンチャー企業を立ち上げて、失敗する人が多いと聞く。

だけど、その失敗が大切だとも聞くのである。

失敗を経験している人間が

次のチャンスを生かす確立が高いのである。

そんなベンチャー精神の持ち主の元祖が

日本の戦国時代にいたのである。

それが、仙石秀久だと私は想うのである。

秀吉の家臣として、活躍し彼自身の人生も波に乗り始めた時に、

『本能寺の変』が起こる。

この時、秀久は先の討伐で手に入れた淡路の城にいた。

その淡路で明智光秀の勢力を一掃して淡路の平定を成し遂げる。

そして、秀吉は山崎の戦で明智軍を破るのである。

さらに、秀吉軍は織田家筆頭家老の柴田勝家と戦う。

『賤ヶ岳の戦い』である。

この時、長宗我部元親の勢力が淡路の洲本城を占拠する。

これを聞いた秀吉は、淡路に仙石秀久を派遣する。

長宗我部元親は柴田勝家に味方していたのである。

淡路に到着して、秀久は洲本城の奪還に成功する。

そして、秀久は羽柴秀吉に味方していた

十河存保(そごうまさやす)を援ける為に四国へ渡る。

しかし苦戦し、長宗我部の軍勢に大敗を喫してしまう。

その後は淡路島に戻り、

何とか淡路を死守し制海権も守る事に成功する。

やがて、賤ヶ岳の戦いが秀吉軍の勝利に終わると、

仙石秀久は淡路に五万石を与えられ洲本城主となる。

さらに、紀州討伐や四国征伐に参加して、活躍するのである。

その功により、讃岐十万石を与えられた。

仙石秀久、絶頂の時であった。

しかし、彼の波乱の人生はこれから始まるのであった。
posted by よしの at 00:25| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

不屈の武将 仙石秀久(第一回)










最近『センゴク』という戦国時代を

舞台にした漫画が連載されている。

一体、どういう物語かと想い、調べてみると

斎藤龍興、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将である

仙石秀久を主人公とした漫画で、

戦国時代の『戦国』と仙石秀久の『仙石』をかけたらしい。

漫画の表紙を見ると、様々な武将の顔が描かれている。

そのため、まさか仙石秀久の物語とは想わなかった。

そんな彼の性格は激しい激情の性格で

猪突猛進の猪武者のイメージが強いのである。

典型的な戦国時代の猛者であったのだ。

仙石家は清和源氏である土岐氏の流れを汲む家柄である

美濃の豪族である。

その為、当初は斎藤家に仕えていたが、

織田信長が美濃を制圧して斎藤家を滅ぼすと、

羽柴秀吉の家臣となる。

秀吉の家臣団の中でも蜂須賀小六正勝と共に

秀吉の草創期の家臣であったのだ。

戦場にあっては先頭に立って突撃し、多くの武功を挙げたのである。

また、真実かどうかは定かではないが、

大坂城に忍び込んだ石川五右衛門を捕まえたのは

彼であったと言われている。

そして、彼の武名を轟かせた戦いが姉川の戦いであった。

その活躍で千石を与えられたのを皮切りに、

トントン拍子で出世する。

秀吉が信長に中国征伐を命じられる。

さらに秀久は黒田官兵衛と淡路島に渡り、

二つの城を制圧する事に成功する。

そして、秀久が淡路に残る。

中国征伐の後顧の憂いを無くすと共に、

ここを拠点に四国を切り取ろうという気もあっただろう。

そんな時に、大事件が起こる。

明智光秀による『本能寺の変』である。
posted by よしの at 21:35| 千葉 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月26日

不気味な野心家 司馬懿仲達(最終回)










司馬という苗字で先ず想いつくのは、

『史記』の著者である司馬遷であろうか。

ちなみに『司馬遷には、遼に(はるかに)及ばない』という意味から

作家としてのペンネームを付けたのが司馬遼太郎氏である。

司馬という名は、元々は軍事に関わる官職であったことから

この司馬の職にあった者達が司馬を名乗る事が多かったらしい。

そして、司馬懿であるが彼の先祖は項羽と劉邦の時代に活躍した

秦末期の武将である

司馬卯(しばごう)の子孫だったといわれている。

名門であり、高官を輩出した家柄でもあったという。

司馬家には八人の男子がいて、『司馬八達』と呼ばれた。

司馬懿仲達のように、名前に『達』の字がついていることのよる。

司馬懿は次男であったが、

八人の中でも最も優れていたと言われていた。

彼は元々、名門の出であったのである。

曹操の築いた曹家は元々は宦官の出であり、

司馬家とは比べ物にならないなんて事も想っていたかも知れない。

だが、そんな感情は決して表には出さずに、

曹家に仕えてきたのである。

魏に国難が訪れても、持てる力を全力で使い、

修羅場をくぐり抜けてきた。

そして、魏の国内で確固たる地位を得ていた。

そんな司馬懿の存在を無視する事は出来なかった。

むしろ、尊敬と畏敬の念で彼に接するくらいであったかもしれない。

やがて曹叡が死去し、幼い曹芳(そうほう)が後を継いだ。

そして、この曹芳の補佐を

大将軍・曹爽(そうそう)と大尉・司馬懿に託された。

この曹爽は権力欲が強かったため、

何とか司馬懿を除きたいと想っていた。

そして、曹爽が司馬懿を名誉職に追いやる事に成功する。

この時、持っていた兵権や権力を取り上げたともいわれているし、

兵権はそのままだったとも言われている。

恐らく、後の成り行きから見ても

兵権はそのままだったのかもしれない。

それと呉軍が魏に攻めてくると、司馬懿がこれを撃退している。

一方、曹爽は蜀の国を攻略しようとするが失敗に終わる。

司馬懿は怒っていただろう。

実力のない者が権力を持つ事により、ろくな事が起こらない。

その後、司馬懿は時を待っていた。

曹爽に油断させる為に仮病を使い、

薬を飲む時にわざとこぼして見せたり、

自分が衰えて『もう長くはない』とでも

想わせるように演技したのである。

そんな司馬懿の様子を知って、曹爽はすっかり油断した。

曹爽が都の洛陽を留守にした機会を狙ってクーデターを起こし、

曹爽一派を逮捕した。

降伏した曹爽一派を殺害し、魏の全権を完全に握った。

そして、息子の司馬師や司馬昭と共に政権運営を行う。

しかし、司馬懿はその権力をつかんだ年に此の世を去る。

後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて皇帝となると、

『高祖宣帝(こうそせんてい)』と追号された。

孫の司馬炎の手により、

晋王朝が開かれ、中国統一を成し遂げるのである。

だが、司馬懿自身は魏より禅譲を受ける気があっただろうか。

確かに権力を握る事は考えたかもしれないが、

あくまでも魏の中での権力と権勢を

掌握するつもりでいたのではないだろうか。

そのあたりは疑問である。

また、余談になるが曹操は死の直前、三頭の馬が一つの槽(おけ)の

餌を食べる夢を見たと言う。

この夢は『馬(司馬)が槽(曹家)を飲み込む』

という夢だったのかもしれない。

しかし、司馬懿も曹操も皇帝になる前に此の世を去っている。

魏も晋も中国の歴史上では、短命政権であったが、

その結果に行き着くまでに

数多(あまた)の魅力的な英雄豪傑を生み出した。

そして、それは短い人生の中を必死に生きていった男達でもあり、

そんな男達が同じ時代に集まったのである。

そんな時代が『三国志』の時代である。

それ故に、たくさんの人達から愛されているのだと想う。
posted by よしの at 22:00| 千葉 ?J| Comment(3) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月25日

不気味な野心家 司馬懿仲達(第三回)







諸葛亮孔明は五丈原の地で此の世を去る。

とても無念であっただろう。

先帝の劉備玄徳の志を果たす事が出来ず、

まだまだ国力において劣る蜀の国を残し、

そして何よりも司馬懿に勝てなかった事が悔しかったであろう。

逆に、司馬懿の心境はどのようなものだったのだろうか。

確かに、諸葛亮のいなくなった蜀は恐い存在ではなくなっただろう。

いや元々、蜀の国を恐れてはいなかったかもしれない。

それは魏の国と比べ国力において圧倒的に上回っていたからである。

それ故、蜀よりも呉に注意を置いていたに違いない。

時は、曹丕から曹叡の時代に移っていた。

相変わらず、信頼を受けていた司馬懿は軍事、政務共に活躍する。

そして遼東の公孫淵が魏に対して、

謀反を起こし、自ら燕王を名乗る。

曹叡は、この征討の司令長官を信頼している司馬懿に命じる。

長期戦を覚悟して、司馬懿は征討に向かう。

公孫淵は司馬懿に野戦を仕掛けるが、完膚なきまでに蹴散らされる。

そして、公孫淵はやむなく籠城するのである。

公孫淵軍は食料を多く蓄えてはいなかった。

司馬懿はこのように語っている。

『軍勢が多く食料の確保が難しいときには、

ある程度犠牲が出ても速攻で戦を仕掛け、敵を倒すべきであり、

軍勢が少なく食料が豊富で安定している場合には

持久戦を行うのがよい』

当たり前の事かもしれないが、なかなか難しいのである。

若い威勢のいい将軍などは軍勢が多ければ、

盛んに戦おうとするだろう。

軍勢が少なくても積極的に仕掛け、大敗を喫する将軍もいるだろう。

そして司馬懿の思惑通り、公孫淵の軍勢は食料がなくなった。

公孫淵は人質を差し出して助命嘆願に来た。

その使者へ向かって、司馬懿らしい発言をする。

司馬懿の性格を現している発言と言ってもいいだろう。

『戦には五つの要点がある。

一.戦意があるときに闘う。

二.戦えなければ守る。

三.守れなければ逃げる。

四.逃げられなければ敵に降る。

五、それも出来なければ死ぬかだ。

貴様らは降伏しようともしなかった。

ならば残るは死あるのみ。人質など無用。』

司馬懿は公孫淵を斬り殺す。

その後がまた、悲惨であった。

再び、魏に対して謀反を起こす可能性がある。

そして、都からも遠いのである。

そんな理由からだろうか、十五歳以上の成年男子を皆殺しにして、

『首観(首の楼閣)』を築いたという。

『晋書』には、『王朝の始祖たる人物が、

虐殺により大量の血を流したことが、

後に子々孫々への報いとなって降りかかったのだ』と書いてある。

そして、いよいよ司馬懿の野心が姿を現すときが来た。
posted by よしの at 21:54| 千葉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月24日

不気味な野心家 司馬懿仲達(第二回)




?o?b?h?i???????????j三国志の現代ビジネス版です。




『晋書』によると、司馬懿は激しい性格であったが

自分の感情を隠すのが非常にうまく、

激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに対応出来たという。

これは、現代を生きる人間にも必要な対応であるだろう。

そして、その穏やかな対応に沢山の人々が騙されたのかもしれない。

その騙された人達が曹操を除いた『曹一族』であったかもしれない。

しかし、司馬懿の有能な能力を無視する事は出来なかった。

皇帝曹丕の絶大な信頼を背景に、軍事に政務にと活躍していく。

それ故に、魏の国内でも権力を手に入れていった。

さらに、その曹丕も皇帝に即位して六年後に此の世を去る。

二代皇帝に息子の曹叡が即位する。

曹叡も引き続き、司馬懿を重用し続け軍事や政務で活躍していく。

間もなく襄陽に呉が侵攻してくると、これを撃退する。

そして、圧巻な離れ技を見せる事になる。

元々、劉備の家臣であった孟達(もうたつ)が蜀の諸葛亮に内応して

魏に謀反を起こす。

司馬懿がいる宛から孟達のいる上庸までは、

通常の行軍では一月はかかる。

司馬懿は低姿勢な書状を送り、孟達の心を惑わす。

その間、昼夜兼行の進軍を強行し、一月のところを

なんと、わずか八日で上庸まで着いた。

城を包囲された孟達は大変驚き、狼狽する。

結局、同僚や部下に離反され司馬懿に斬られてしまう。

その功により、司馬懿は将軍の最上位である大将軍に昇進した。

その後、蜀の北伐軍とは漢中などの争奪戦を展開し、

何度となく戦う。

そして、運命のライバルである諸葛亮孔明と

一騎打ちとも言える運命の戦いが起こる。

孔明と五丈原で戦うこととなった。

司馬懿は守備に徹することが勝利に繋がると確信し持久戦に徹した。

そのため、魏軍は自ら打って出る事をしなかったのである。

これは、蜀の軍が遠征ではるばるやって来ているため、

持久戦の方が有利と判断したのかもしれない。

確かに蜀は屯田(兵士に開墾させる事)を行っているが、

時間がかかり、限界があるだろう。

それ故に、孔明は早く野戦に持ち込みたい為に、

『貴殿が男ならば決戦に応じろ』と女性の喪服を送ったりした。

周囲は怒り狂ったようだったが、

当の本人である司馬懿は冷静であった。

これは、あくまでも孔明の挑発であるといい、

その手には乗らなかった。

逆に、孔明の手紙を持ってきた使者に孔明の様子を聞いたりした。

そのやりとりで、孔明の体調があまり良くないと察したのである。

そして案の定、孔明が陣中で此の世を去る。

司馬懿は孔明の死を知り、魏軍に攻撃を命じた。

しかし、あろう事か諸葛亮の姿がそこにはあり、

蜀軍に反撃され、『これはまずい。何か計略があるに違いない。』

と警戒して逃げ帰った。

『死せる孔明、生ける仲達を走らす』と人々は評したのである。

司馬懿も『生きている諸葛亮の策略は見抜けるが、

死した諸葛亮の事は判らないな〜』と言ったらしい。

しかし、諸葛亮孔明が此の世を去った事は、

蜀の国がもはや魏の国の敵ではないと判断したかもしれない。

いや、魏というよりも司馬懿自身の敵ではないと想ったであろう。

その後も大将軍司馬懿は魏の安定と天下の為に

東奔西走するのである。

それだけ彼が実力を持ったという事であり、

それと同時に権力を拡大していったに違いない。

司馬懿は着々と来るべき時に備え、力を付けていたのである。
posted by よしの at 21:41| 千葉 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月23日

不気味な野心家 司馬懿仲達(第1回)










『死せる孔明、生ける仲達を走らす』と

五丈原の戦いで撤退する蜀軍に対して、

追撃を止めた司馬懿に対して言われた言葉であった。

諸葛亮孔明の宿命のライバルとして知られる司馬懿仲達であったが、

最後まで、孔明に負ける事はなかった。

しかし、この司馬懿は諸葛孔明の人気の陰に隠れて、

あまり人気がないようだ。

そして、諸葛亮孔明よりも実力が過少に評価されているようである。

やはり、彼の切れ過ぎる知略と不気味な野心が

彼を悪役に仕立ててしまっているのかもしれない。

日本でいうと、鎌倉幕府の初代執権・北条時政や

秀吉の軍師・黒田如水のような存在だろうか。

とにかく、智謀溢れる野心家というイメージである。

そんな司馬懿は、魏の曹操に仕え、その的確な判断力による曹操に対

する進言で魏の文官の中でも頭角を現していく。

そんな司馬懿を曹操は心から信用していなかったようである。

司馬懿の首は百八十度、後ろにひねる事が出来たらしい。

本当だろうかと想ってしまうが、

これを『狼顧の相(ろうこのそう)』と言った。

この狼顧の相とは、『狼が用心深く後ろを振り返るように

警戒心の強い姿』を意味するらしい。

この相を狼顧の司馬懿が持っていたので、

曹操は警戒したのだそうだ。

それに有能な司馬懿を側に置いて、

曹操自身も肌で感じたのだろう。

しかし曹操の死後、息子の曹丕からは厚い信頼を受けた。

曹操の死後に曹丕が魏王になると、

漢の献帝が曹丕に譲位の詔を出した。

つまり、『禅譲』である。

これに対して、

司馬懿は『この申し出をすぐに受けてはなりません。

受けたならば、不義の謗り(そしり)を逃れる事は出来ませんぞ。』

と助言した。

曹丕は三度辞退してから帝位を継承した。

ここに、後漢王朝は滅んだのである。

そして、魏王朝が誕生した。

曹丕は文帝として初代皇帝に即位した。

そして、司馬懿仲達は丞相(じょうしょう)として政務を任される。

丞相とは、現在の日本でいうならば総理大臣である。

それは、司馬懿仲達の野心が燃え上がり始めた瞬間でもあった。
posted by よしの at 22:37| 千葉 | Comment(1) | TrackBack(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

政治家・井伊直弼(最終回)










小田急線に豪徳寺という駅がある。

この駅の近くに豪徳寺という寺がある。

昔から『猫』でも有名で、招き猫の発祥の地とも言われる。

そして、この寺は井伊家の菩提寺でもある。

徳川四天王井伊直政の息子である井伊直孝が『猫』により

寺の門内に招き入れられ、雷雨を避ける事ができた。

この寺の和尚の説法を聞くことができたことを大いに喜び、

この寺を井伊家の菩提寺としたらしい。

そして、井伊直弼もこの豪徳寺に眠っている。

また、この『猫』が井伊家の居城である

彦根城のマスコット『ひこにゃん』の由来である。

井伊直弼が開国派の筆頭として、

幕府内の中でも存在が大きくなっていた。

攘夷派との対立に苦労していた阿部正弘が若くして、

此の世を去ると開国派が勢いを増す。

そして、当時の老中首座であった開国派の堀田正睦は

阿部により更迭された松平忠固(ただかた)を老中に再任する。

ここに、堀田、松平の開国派主導の幕閣が誕生した。

恐らく、この後ろ盾として陰で

井伊直弼が大きな影響力を発揮していたのだろう。

そんな権力争いの最中に、

十三代将軍の徳川家定の継嗣問題が表面化する。

この問題も大きな問題となっていくのである。

井伊直弼は紀州藩主の徳川慶福を推し、この勢力を南紀派という。

越前藩主で名君の誉れの高い松平慶永や

開明的思想の名君である薩摩藩主の島津斉彬、

前水戸藩主である徳川斉昭などが

一橋徳川家の当主である一橋慶喜を推した。

一橋慶喜は徳川斉昭の息子である。

この勢力を一橋派という。

この二つの勢力が権力闘争を繰り広げるのである。

そして、安政五年(一八五八年)に井伊直弼は大老に就任する。

井伊が就任して、半年後にアメリカと

強引に日米修好通商条約を調印する。

孝明天皇の勅許無しに条約を結んだ事が問題となった。

井伊はどのように想ったのだろうか。

幕府が政治の実権を委ねられているのだから、

勅許など得る必要はないと想っていたのかもしれない。

私は、この辺の豪腕振りが民主党の小沢一郎氏と重なる。

そして、混乱の責任を取らせたわけではないだろうが、

堀田正睦と松平忠固を解任する。

二人は、一橋派であったとも言われ、

それが気に入らなかったのかもしれない。

そして条約を結んだ事により、日本中が騒がしくなってきた。

尊皇攘夷派が活躍し始める。

そんな状況を打破する為に、

大老井伊直弼は強権を持って治安を回復し

混乱した状況を治めようとする。

そして将軍家継嗣問題もその豪腕により

紀州藩主の徳川慶福を十四代将軍とすることに決定するのである。

直弼の権力と権勢は更に大きなものとなる。

さらに直弼に反対する者は、ほとんどの人間が退けられた。

一橋慶喜の実父である徳川斉昭や松平慶永は蟄居させられ、

有能な官僚達は罷免させられた。

井伊直弼の対応に怒ったのが、誰あろう孝明天皇であった。

天皇は、水戸藩に直弼の排斥をさせる『戊午の密勅』を発した。

この事が直弼に判明する。

直弼は朝廷が政治に関与する事に怒りを感じるのである。

水戸藩に密勅を返納するように命じる。

そして、この密勅に関与した人物の摘発を間部詮勝に命じ、

多数の志士や公卿を粛清した。

『安政の大獄』である。

吉田松陰や橋本佐内、梅田雲浜という逸材が命を奪われる。

これに尊皇攘夷派が激怒する。

安政七年(一八六〇年)三月三日に水戸藩士らの襲撃により、

江戸城桜田門付近で襲撃され、命を奪われた。

『桜田門外の変』である。

享年四六歳であった。

井伊直弼の激動の生涯がここに終わった。

彼の幕政はまさに『闘いの政治』であったように想う。

そして、井伊直弼の死は幕府の権威が失墜するきっかけとなった。

それは、明治維新へのきっかけでもあったのだ。
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2008年04月21日

政治家・井伊直弼(第二回)




























もう何年経つだろうか。

東京裁判』という長編ドキュメンタリー映画を見た時に、

第二次世界大戦が終わり、

日本がポツダム宣言で戦艦ミズーリだっただろうか、

その艦上で外相の重光葵と軍の代表である梅津美治郎が

連合国の降伏文書に調印していた。

その頭上にペリーが来航した時に掲げていた『アメリカ国旗』を

額に入れて飾っていた映像が映っていたのを覚えている。

そして、その旗がとても年季の入った古い旗だと

白黒の映像からも判った。

そして、一九四五年に行われた調印式より約百年前に、

ペリー艦隊は日本に来航したのである。

その時、江戸湾の防備に彦根藩の赤備えを

引き連れて活躍したのが井伊直弼であった。

どのような心境で兵を率いただろうか。

井伊家といえば、徳川家の先鋒を任される家柄である。

緊急時には真っ先に兵を引き連れて

駆けつけなければならないだろう。

そういう、気持ちも直弼は持っていた事だろう。

肖像画を見ても、本当に頑固そうで堅物に見える。

しかし、ペリーが開国を要求すると

彼はアメリカとの和親、交易に賛成している。

例えば、時の老中首座の阿部正弘がペリーへの対策を聞いてきた時も

『臨機応変に対応するべきで、積極的に交易するべきである』

と開国論を主張したと言う。

そして、そんな直弼の意見に真っ向から反対した大名がいた。

水戸藩の徳川斉昭であった。

当時、海防掛顧問で攘夷派大名の筆頭であった彼は

開国を主張する外様の名門である井伊直弼と対立する。

そして権力争いの末、

開国派の老中であった松平乗全(のりやす)と

松平忠固(ただかた)の二名が更迭された。

斉昭が阿部に対して更迭させたらしい。

これに怒った直弼は阿部正弘に対して猛烈に抗議した。

『赤鬼』と呼ばれるくらいだったから、

それはもう、とても迫力があった事だろう。

これに負けたのか、開国派の堀田正睦(まさよし)が老中となった。

そして、阿部は堀田正睦を老中首座に据えた。

阿部正弘は攘夷派と開国派の板ばさみになった形であった。

そんな難しい政治状況の中、

何とか阿部正弘は幕府内の対立を鎮めたのである。

いつのまにか、開国派の首領のような存在になっていた

井伊直弼は幕府内でも重きを成す存在となっていた。

そんな時に、阿部正弘がこの世を去る。

三十九歳という若過ぎる死であった。

そして、井伊直弼に残された時間も長くはなかったのである。

そのように想えないくらい物凄い速さで時代が動き、

激動を生きなければならなかったのである。
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