2008年06月30日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第三回)




長井長弘こと斎藤道三は土岐頼芸を美濃国守護の座に付かせ、

絶大な信頼を得たのである。

そして当時、国政を仕切っていた長井長弘。

かつての恩人であるが、この恩人が邪魔になったのだろう。

今や美濃国守護土岐頼芸をバックに付けた道三は上意により、

長井長弘に不忠の罪をきせて殺害したのであった。

そして、道三はこの長井家を乗っ取り長井新九郎を名乗りながら

美濃の国政を仕切るようになった。

しかし、この辺もいろいろな説があるようである。

謎が多いのである。

さらに守護代の斎藤利良が病死すると、

すぐに、その跡目を彼が継ぐのである。

道三は斎藤利政、そして後に斎藤秀龍と名乗った。

ここに長井家と斎藤家という美濃の名門を継いだことで、

彼の美濃における基盤は磐石となった。

斎藤道三の野望はさらに続くのであった。

そして、斎藤氏の居城である稲葉山城を手に入れ、

この城を大改築して難攻不落の要塞にしたのである。

これにより、美濃国内では無視できない存在となっていた。

『無視できない勢力』と言い換えてもいいだろう。

道三の後ろ盾になっていた土岐頼芸は

『後ろ盾』のつもりでいただけで利用されていたのである。

頼芸も流石にそれに気付いた。

しかし、時既に遅かった。

道三は既に次のターゲットとして土岐頼芸を見ていたのであった。

道三は頼芸の城を大軍で急襲して陥落させた。

そして、土岐頼芸を尾張国へ追放するのである。

これにより道三は事実上、美濃国主となり、

ここに『美濃一国』を手に入れたのである。

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2008年06月29日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第二回)







斎藤道三の生涯はサクセスストーリーそのものであろう。

豊臣秀吉の生涯もそうであるが、

二人の違いは『国獲り』と『天下獲り』の違いでもある。

秀吉よりも時代が先行する斎藤道三や北条早雲の生涯を

当時の日本人はどのような目で見ていたのだろうか。

『俺だって国を獲れる』、

今で言うならば『社長になれる』というところであろうか。

そう想った人間は数多くいたに違いない。

しかし、それは同時に戦乱を呼ぶ

『下克上の風潮』ともなったのである。

それ故に、道三のイメージの悪さもあり

彼を英雄扱いする人はあまりいないだろう。

北条早雲は別として、

謀略に明け暮れた生涯がつきまとうからであると想う。

そんな斎藤道三、長井氏の家臣として西村正利と名乗り、

歴史の舞台に上がろうとしていた。

まずは美濃国守護の土岐氏の次男である土岐頼芸(ときよりなり)に

取り入って信頼されて、その重臣となるのである。

ここから、道三の謀略が牙を剥くのである。

そして、美濃国守護土岐氏の家督争いが起こる。

頼芸とその兄の政頼との戦いである。

しかし、頼芸はこの戦いに負けるのである。

だが道三の動きは早かった。

道三は即座に政頼に夜襲を仕掛け、

政頼を越前に追放したのである。

西村正利こと道三は頼芸の逆転勝利に大いに貢献したのである。

同時に頼芸は道三を大いに信頼するのである。

そして、土岐頼芸を美濃国守護に就けた道三は

次のターゲットを定めていた。

当時、譜代の重臣であり国政を仕切っていた長井長弘、

道三の恩人であった。

この長弘に道三の牙が向けられた。

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2008年06月28日

マムシと呼ばれても 斉藤道三(第一回)




戦国時代を代表する梟雄の一人、斉藤道三。

その生き方は凄まじいものであった。

世間一般に伝わっているイメージとしては、

謀略につぐ謀略により欲しいものを手に入れたような感じであろう。

『彼一代で美濃一国を手に入れた男である』

様々な噂も流れていただろう。

そんな道三は美濃守護の土岐氏の重臣である

長井長弘(ながいながひろ)の家臣として取り立てられた。

ここから、道三の野望は始まるのである。

それ以前の道三の人生は様々な説がある。

京の油問屋の婿養子として油売りを商売としていたらしい。

また、別の説では明覚寺という寺の僧であったともいわれている。

本当はどうだったのだろうか。

彼は長井氏の家臣になってから、

武芸とその才覚で頭角を表わしていく。

彼は元々、有能な人間であったのだ。

それ故、周囲にいる家柄や地位のみが頼りの人間どもに

負けない自信を持っていたかもしれない。

そして、その自信が野望へと変わっていったのだろう。

それ故に、彼の力だけで美濃一国の国主にまでなれたのだろう。

それは、並の才能ではなく

稀代の戦略家であることだけは確かであった。

地方の国人でも小大名でもなく、無名の一人の人間である。

頼れるものは自分の力だけである。

基盤のない斉藤道三とは、他の梟雄達とは違う。

梟雄と呼ばれる北条早雲や松永久秀とは、

その辺が違うところだろう。

家柄など関係なく優れた人間や強い人間が勝ち抜く時代、

それが戦国時代であった。

日本史上でも、この時代ほど実力本位の時代はなかっただろう。

それ故に、後の『下克上』を可能にしたのであった。

さて、長井氏の家臣となり

その家臣の西村氏の家名を継いで西村正利を名乗る。

くどいようだが、ここから彼の野望が始まるのである。

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2008年06月27日

我は覇者なり 斉の桓公(最終回)




桓公が即位してから四十一年、宰相の管仲が病に倒れた。

桓公はさぞ狼狽した事であろう。

管仲の見舞いに行き、今後の事を相談したのである。

『そなたに万が一の事があった場合、誰を宰相にしたらいだろうか』

と管仲に聞いたのである。

桓公は自分の意中の人間を三人挙げた。

そして、管仲の答えは『いずれも相応しい人物はおりません』

というものであった。

そして、明確に管仲は自分の後継者を告げないまま、

その生涯を閉じたのであった。

後に桓公は管仲の忠告を無視し、

自分の意中の三人を重用したのである。

すると、この三人は権力を欲しいままにして

皇太子昭(しょう)を廃し、

自分達の傀儡に出来る公子を太子に据えたりした。

やりたい放題であった。

管仲の人を見る目は正しかった。

そして桓公は後悔した事だろう。

『管仲に会わせる顔がない』という想いであったかもしれない。

桓公には三人の夫人がいた。

しかし、三人には子がなかった。

その一方で六人の愛妾達には子があり、

男子だけで十人以上いたのである。

そのうち、後継者の資格を持つ公子として五人を決めていた。

管仲が生きている間は安定していた政治は、

その死後、先に挙げた三人により混乱に陥るのである。

即位してから四十三年目、桓公が病に倒れてしまう。

桓公に最期の時が迫っていた。

公子達はそれぞれの勢力を創り、跡目争いをしていた。

そして、争いは内乱へと発展していった。

病に倒れている桓公にはどうする事も出来なかったのだろう。

『管仲が生きていれば、こんな事にはならなかっただろう。

あるいは鮑叔がいたら・・・』と想った事だろう。

誰も桓公の事などどうでもよかった。

公子達は権力闘争に明け暮れていた。

そして、桓公は此の世を去った。

その死が発せられても公子達は闘争を止めなかった。

桓公の遺体は死後六十七日放置されたままであった。

その遺体にはウジが湧いていたという。

そして、この内乱のせいで斉の国力は低下し、

覇者の地位は晋の文公こと重耳が継いだ。

中国史上最初の覇者である桓公の末路は

大変悲劇的なものとなってしまった。

これが、中原に覇を唱えた男の末路とは悲しすぎる。

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2008年06月26日

我は覇者なり 斉の桓公(第五回)










桓公が即位してから二十年以上経った頃、

異民族の山戎(さんじゅう)が燕に攻め込んできたのである。

桓公は燕の援軍要請を受けると、

軍を率いて見事に追い払うのである。

異民族との戦いが終わると燕王は桓公を見送った。

話は反れるが燕は『王』を名乗り、斉は『公』を名乗っていた。

これは、燕が中原より東の辺境にあるため独立色が強く、

燕の君主は『王』を名乗っていたのである。

しかし、実質的には『公』と変わらないのであった。

その燕王が桓公を見送った時、斉の国境を越えてしまった。

これは、大変な事であったのだ。

当時、『君主が国境を越えて見送るのは天子に対する時のみである』

というのが、しきたりであった。

つまり、諸侯同士の場合は国境線まで

見送るというのが慣習となっていた。

桓公は『礼に反した事を燕王にさせてしまった』

そこで桓公は自分と燕王との間に溝を掘らせ、

そこを新たな国境としたのであった。

これは、斉の領土を燕に割譲したことになるのだ。

助けてもらった上に領土まで与えられた燕王は

大変感謝したどころか、感動したであろう。

そして益々、桓公の名声は高まったのである。

これも、もしかすると管仲がそうさせた可能性も高いだろう。

『与える事は取る事である』

燕に領土を与えた事により、名声と人望を手に入れたのである。

桓公は覇者として名実共に権威と権力の頂点を極めたのである。

そんな栄華を極めた桓公は魔がさしたのであろうか。

少し有頂天になっていたのかもしれない。

桓公は天子のみが出来る『封禅の儀』を行うと言い出した。

これは周の天子を無視して、

自分が天子になると言っているようなものであった。

管仲は『なりません』と必死に諫死して、これを止めた。

懸命に説得してどうにか思いとどまらせたのであった。

このあたりから、桓公がおかしくなって行くのである。

それを一番感じていたのは管仲であっただろう。

恐らく、管仲の心中は悲しみに溢れていたかもしれない。

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2008年06月25日

我は覇者なり 斉の桓公(第四回)










斉の桓公は管仲という名宰相を手に入れた。

鮑叔の助言が無ければ、

恐らく管仲は歴史に名を残す事は無かっただろう。

そして、桓公の人生も違ったものになっただろう。

『桓公と管仲』という

中国史上でも稀に見る名コンビは生まれなかっただろう。

桓公自身も鮑叔を信じていたのだろう。

その信頼は大きかった故に、管仲を登用したのである。

管仲を自分の側近に置く度量も見事だが、

もしかしたら管仲自身の

優秀な力量を知っていたのではないだろうか。

管仲が有能であることは

恐らく斉の国の中でも知れ渡っていた事実だったかもしれない。

その理由としては、鮑叔の存在が大きかったであろう。

彼の家は大夫の家柄であり、その管仲とは旧知の中であった。

恐らく、鮑叔や彼の周辺から管仲という人物について、

その有能ぶりが広まったのではないだろうか。

さて桓公は管仲と共に、

まず斉の国内の政治改革を断行するのである。

『富国強兵』を推し進めていくのである。

ただ、『強兵よりも富国が先です。』と

管仲は富国を優先していった。

物価を安定させ、斉が海を持っていた事から

塩の専売や漁業を盛んにした。

そして、その利益により領民を豊かにしたのである。

すると民衆は喜んで働き、国は益々豊かになった。

さらに、自由に商人を呼び寄せ、商業を盛んにした。

また、有能な人材も積極的に登用した。

さらに、魯に攻め込み領土を奪った。

この時の講和会議で魯の将軍が桓公に飛び掛り、

『奪った領地を返せ』と脅迫した。

桓公はそれに応じざる負えなかった。

会議が終わると、桓公は烈火の如く怒り

『あんな約束は無効である』と無視しようとしたが、

管仲は『例え、脅迫によろうとも

一度結んだ約束は守らねばなりませんぞ』と桓公に約束を守らせた。

魯から奪った領土を返還したのである。

すると、その経緯を聞いた諸侯達は桓公は

『信頼するに足る君主である』と評判になり、

小国の君主などは進んで

斉の桓公を頼りにするようになったのである。

桓公はこの時、『信義』が如何に大切かを想い知ったのであった。

そして桓公が即位して七年、国力は充分に強化された。

諸侯が集まって協力体制を確認する会議が開かれた。

いわゆる『会盟』である。

斉の桓公はこの時『覇者』と認められ

天下に号令をかけるようになった。

『覇者』が誕生した瞬間であった。

そして今までの『周』王朝のあり方が変化したのである。

今まで、諸侯に号令をかけることが出来たのは、周王のみであった。

それが、周王から覇者へと変わったのである。

さらに後の会盟では周王朝からの使者も派遣され、

表向きは覇者である桓公に

政権を委ねたということを天下に示したのである。

日本で例えるならば、

天皇が征夷大将軍を任命する形になったような感じだろうか。

ここに斉の桓公は『覇者』として、政権を運営していくのである。

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2008年06月24日

我は覇者なり 斉の桓公(第三回)










桓公は即位すると、すぐに兵を挙げた。

兄の糾を討つ為であった。

糾は亡命先の魯に助けを求め、魯がこれに応じた。

ここに斉と魯が戦う形になったのである。

戦いの末、何とか斉が魯に勝った。

桓公が魯に対し、『糾は兄なので、この手で殺すのは忍びない。

どうか魯において、殺害して欲しい。

しかし、管仲と召忽は斉を裏切った人間である為、

こちらに送還して欲しい。

二人の身柄を渡してもらいたい。』と魯に求めたのである。

魯はやむを得ず、糾を殺害した。

それを観た召忽は魯の地で自害して果てた。

一方、管仲は死ねなかったのだろうか。

管仲は斉に送還された。

桓公は自分の命を狙った管仲を殺そうとした。

そして、塩漬けにしようとしたらしい。

それほど、憎んでいたのであった。

ところが、ここで桓公に意見した男がいた。

桓公の教育係である鮑叔であった。

『管仲を殺すのはお待ちください。

我が君が生涯、斉の君主で治まるつもりならば

私一人がいれば、十分でしょう。

しかし、もし天下を望まれるならば、

覇者となるならば、

管仲こそが、我が君に必要な人材であります』と

管仲が必要な人材である事を述べたのである。

鮑叔と管仲は親友であったので、その命を助けようとしたのだが、

それだけではなかっただろう。

ただ単に親友だったから助けようとしたのではなかったのだろう。

鮑叔は管仲の実力を充分に判っていたのであった。

彼が『天下の器』であると鮑叔は想っていたのである。

そして鮑叔の言葉は嘘ではなかった事が後世の歴史が証明している。

管仲は春秋戦国時代を通して、

最高の宰相と評価されるほどの人材であった。

一説によると、管仲の身柄引渡しを要求したのも

鮑叔だったと言う説もある。

管仲を他国に取られては大変だと想ったかもしれない。

この二人の関係を『管鮑の交わり』と言った。

そして、桓公は天下の名宰相・管仲を得たのである。

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2008年06月23日

我は覇者なり 斉の桓公(第二回)




暴君襄公は、女と見れば見境なく手当たり次第に

手を付ける好色な人間であった。

妹にまで手を出す男である。

『英雄色を好む』という言葉は彼に対しては使いたくないものだ。

そして、気に入らない家臣を粛清し、

何人もの家臣を無実の罪で殺害していた。

周囲では襄公に対する不満は頂点にまで達していたのだろう。

そこで、周囲の状況を察し立ち上がった男が公孫無知であった。

彼は機会を窺い、ついに襄公を殺し

自らが公の地位に就いたのであった。

無知としては、ようやく恨みを晴らした瞬間であった。

しかし、公孫無知に不満を持っていた者もいたのだろうか。

彼も一年後には殺害されてしまうのである。

こうして、斉では公の座が空位になった。

斉にいる家臣達は白羽の矢を二人の英明な公子に立てるのである。

糾と小白であった。

亡命先から先に戻った方が公の座に就ける事になるだろう。

間違いなく、優位な立場になる。

その為、二人の間で後継者争いが起こる。

先に動いたのは小白であった。

それを知った糾も魯の軍勢と共に斉へ向かった。

途中、糾の教育係の管仲が糾の暗殺を試みる事にした。

小白を待ち伏せた管仲の放った矢は見事に小白に命中し、

小白は崩れ落ちるように倒れた。

そして、小白は動かなかった。

管仲は見事に小白を討ち取り、

『小白死す』という知らせを魯に送った。

これで、糾の一行はゆっくりと斉へと向かうのであった。

ところが、死んだはずの小白は生きていた。

小白は死んだふりをしていたのであった。

まさに一世一代の大芝居であった。

糾がそれを知った時、

既に小白は斉に着いており

新たな後継者として斉公に擁立されていた。

この小白こそが誰あろう、斉の桓公であった。

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2008年06月22日

我は覇者なり 斉の桓公(第一回)




中国春秋戦国時代に斉という大国があった。

この斉は周建国の軍師である太公望呂尚が

領土として貰った土地であり、その名を『斉』と名付けた。

その十六代目にあたるのが、

後に中国初の覇者と呼ばれる事になる桓公である。

桓公は斉の皇族として生まれたが、

簡単に皇位に就けたわけではない。

それはそれは、大変な道のりであった。

十四代目の襄公(じょうこう)は桓公の兄である。

この襄公について、少し触れてみたい。

その妹が魯公に嫁いだ。

魯の桓公である。紛らわしいものである。

さて、その魯の桓公が斉を夫人と共に訪問した。

つまり魯公が妻の実家に妻と共に訪問したのである。

それ自体は何と言う事はないのだが、実は大きな問題であったのだ。

襄公は妹の魯公夫人と魯公に嫁ぐ前から通じていたのである。

恋仲であった。

そして襄公は感情を抑えきれずに、この時も密通するのである。

それを魯の桓公は知ってしまうのである。

当然、激怒した。

『これはどういう事であるか!』

困った襄公は宴会で桓公を泥酔させると、

怪力の持ち主である家臣の彭生(ほうせい)に命じて

殺害してしまった。

今度は、魯国が激怒した。

『これはどういう事であるか!』と斉に抗議して来た。

すると、襄公は『彭生が全て一人で行ったことである』として

全ての罪を着せて処刑するのである。

とんでもない主君であった。まさに暗君である。

こんな事で事を収めようとしたのである。

しかし、魯は大国である斉に泣き寝入りするしかなかったのだろう。

また、襄公は気に入らない人間を次々と粛清していった。

その一人が、襄公と王位を競った公孫無知であった。

襄公の父は息子の襄公よりも無知を可愛がり、

そのために公孫という称号を与え、

当時太子であった襄公と同じように扱われたのである。

襄公の父は、自分の地位を無知に与えたかったようであった。

それはまた、襄公に異常性を見て取ったのかもしれない。

その様子を襄公は当然、面白くなかった。

しかし、襄公が公の座に就いた。

それ故、自分が公に就くと

無知に与えられていた特権を全て剥奪した。

襄公も無知もお互いがお互いを、

その存在に面白くなかったのである。

しかし、無知は自分の恨みを抑え、自粛していたのであろう。

襄公に対しては、気を遣い接したに違いない。

その為、粛清されずに済んだのだろう。

そんな国内事情に不安を感じた人間がいた。

『襄公の側にいては、いずれ不幸な運命を辿るだろう。』

その結論として、亡命を選んだ公子が二人いた。

その二人は兄の襄公とは違い、英明で将来が期待されていた。

襄公の次弟である糾(きゅう)は母の故郷である魯へ亡命した。

恐らく、魯には先の桓公夫人はいなかっただろう。

そして、糾の教育係として従ったのが

管仲(かんちゅう)と召忽(しょうこつ)であった。

その下の弟である小白(しょうはく)は

『きょ』という地に亡命した。

その小白には教育係として鮑叔(ほうしゅく)が付いていた。

この教育係の管仲と鮑叔は親友同士であった。

この亡命が二人を鍛え、

そして天は二人に苦難の運命を用意するのである。


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2008年06月21日

明治の騎馬隊長 秋山好古(最終回)




秋山好古は古武士と言われていた。

戦場でも常に酒だけは手を放さなかった。

それ以外の贅沢は一切しなかったらしい。

好古が戦争を終えて広島の宇品港に帰ってきた時、

前線で危険を共にした部下達に『凱旋祝いだ』と言って、

気前良く戦争中の自分の俸給を与えてしまったという。

好古は戦場でも訓練でも部下に厳しかったが、

同時に部下を思いやる気持ちも、とても強かったのだろう。

さて、好古は『奉天大会戦』で大軍を相手に奮闘する。

この戦いで日本軍全体が後手に回っていた。

増援隊も含めて死傷者九千三百人を出したが、

秋山隊はこれを死守する。

そして、ここに奇跡が起きた。

ロシア軍が日本軍の陽動作戦に乗り、総退却をした。

やはり、クロパトキンは冷静を欠いていたのだろう。

好古の部隊は九死に一生を得たのである。

後に、状況を把握した司令部は

『よくあの兵力で、あれだけの大軍を相手に持ちこたえたものだ』と

口を揃えて驚いたという。

結局、日本軍は日露戦争陸戦の山場といわれた

『奉天大会戦』で勝利を収めるのである。

日本軍だけでなく、日本国自体がぎりぎりの状態の勝利であった。

日露戦争後の好古は騎兵監に就任し、騎兵学の体系化を完成させた。

『日本騎兵の父』と後に秋山好古が呼ばれる所以である。

大正四年(一九二四)、郷里松山中学校の校長に迎えられ、

在職六年、青少年の教育指導に力を入れたのであった。

また、校長になった時、『日露戦争の事を話して欲しい』

『軍服を見せて欲しい』と言われても一切断り、

自分の武勲を自慢する事は当然なかったという。

昭和五年(一九三〇)十一月四日、秋山好古は永眠する。

享年七十二歳であった。

昭和の世まで生きたのであった。

好古の目には、昭和の軍人がどのように見えただろうか。

彼の死後十五年後に日本陸軍が崩壊するとは

流石の好古も想っていなかっただろう。

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2008年06月20日

明治の騎馬隊長 秋山好古(第三回)







秋山好古が松山の後輩である白川義則に言った言葉がある。

『偉くなろうと想えば邪念を去れ、邪念があれば邪欲が出る。

邪欲があっては大局が見えない。

邪念を去るということは、偉くなる為に必要な要素である。』と。

おごりや功名心が強いと負け戦を導く事になると

兵法の理論がそのまま、人生観にもなった感じである。

その白川義則は後に陸軍大臣になる男である。

好古の影響力を強く受けたかもしれない。

日露戦争が始まると、秋山好古が指揮する騎兵第一旅団は

遼東半島に上陸してロシアのコサック騎兵軍団と戦闘を展開し、

奮戦するのである。

まだ当時の日本の馬は足が短く貧弱な日本馬であった。

当然、ロシアのコサック騎兵は

日本の騎兵よりも精強で強かっただろう。

しかし、このロシアの騎兵を

好古の率いる騎兵団が撃破するのである。

これには世界は当然の事、日本軍も驚いたかもしれない。

また、好古は騎兵の特徴を生かして

遠距離斥候隊を敵中に侵入させ、

敵兵力が奉天で決戦準備を進めていることを探らせた。

好古にとって運命の戦いである

『奉天大会戦』が始まろうとしていた。

旅順を攻略されたロシアは撤退を続けていたクロパトキンが、

何とか攻勢に転じようとしていたのだろう。

日本は日本で、自国が優勢な状況で講和を結ぶ機会を待っていた。

そんな時に、大山巌司令長官はクロパトキンに先制攻撃を仕掛けた。

ここに、『奉天大会戦』が始まった。

クロパトキンは冷静さを欠いていたのだろう。

兵力では日本軍よりも多いのだが、

負け続けている軍勢には勢いも士気もない。

ロシア軍は徐々に撤退していく。

日本軍も苦戦しながら奮戦する。

好古が率いる隊は日本軍の左翼である黒溝台付近に配置していた。

かねてから騎兵を偵察に放っていた好古の元に、

『ロシア軍が日本軍の左翼に弱点がある』と観ているという。

そして、ロシアの大部隊を投入するという情報が入った。

好古は敵の来襲を確信していた。

しかし、この時、日本の総司令部は

『冬季の戦争はない』と観ていた。

だが、好古の予見は当たった。

その結果、好古の軍勢八千は

ロシア軍十二万を相手にする事になった。

好古はこんな時でも酒を飲んでいたのだろう。

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2008年06月19日

明治の騎馬隊長 秋山好古(第二回)







秋山好古は酒が大好きであった。

戦場でも飲んでいたらしい。

ある時、唇に流れ弾を受けたが、それでも飲んでいたという。

また、副官の清岡真彦に

『清岡、お前ともう一度戦争に行きたいな』と好古が言うと、

『あまり強い酒さえ召し上がらなければ、是非お供したいものです』

と清岡は恐らく、本音を答えたのだろう。

更に『大丈夫、次の戦争は酒は呑まない』

『そのお言葉だけは保証出来ません』とのやりとりがあったらしい。

清岡の言うとおり、日清戦争でも日露戦争でも飲んでいたらしい。

彼にとっては酒は水かジュースのようなものであったのだろう。

陸軍士官学校を卒業した秋山好古は騎兵少尉となり、

更に第一期生として陸軍大学校に入学し騎兵大尉として卒業した。

その後フランス留学し、ここで騎兵戦術を学んだのだ。

また、好古はフランスでも非常にもてたらしい。

その顔立ちは西洋人に間違われるくらいだから、

フランスでもモテモテであったのだろう。

だが好古にはそんな事は全く関係なかったのである。

戦術初めいろいろなものを吸収したいと想っていたのだろう。

当然、日本陸軍の為にである。

そして、この時に好古は腸チフスにかかったらしい。

彼はこれを自力で治したのである。

凄い精神力である。

明治の人間にはこういう人間がいる。

その時代が如何に日本人そのものに

エネルギーとバイタリティーがあったかが判る。

帰国した好古は少佐になり、騎兵大隊長となる。

プライベートでは、この頃に結婚した。

そして、日清戦争に騎馬隊を率いて参加し各地で活躍するのである。

それ以後、陸軍乗馬学校校長や騎兵実地学校長など

教育に携わった後に、

清国駐屯軍参謀長、守備隊司令官などを歴任した。

そして、明治三十七年(一九〇四)に

日露戦争が開戦されるのである。

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2008年06月18日

明治の騎馬隊長 秋山好古(第一回)







明治の時代、まだ自動車も戦車も無かった時代に

戦国の世からの機動性を備えた唯一の乗り物。

それが騎馬であった。

秋山好古は日露戦争で騎兵隊を組織し、

縦横無尽に暴れ回り大活躍するのである。

『日本騎兵隊の父』と呼ばれた男であった。

そんな秋山好古について書いてみたいと想います。

彼は、司馬遼太郎氏の代表作の一つである

『坂の上の雲』の主人公の一人である。

弟は日本海軍で大活躍し、

知名度は好古よりも有名かも知れない秋山真之である。

もちろん、この司馬氏の作品で好古の知名度は高くなっただろう。

好古の肖像画を見ると、日本人とは想えない顔である。

本当に西洋人の顔立ちに見える。

確か『坂の上の雲』にも、

そのようなエピソードが書いてあったと想う。

好古も真之もなかなかの美男子である。

そんな二人は伊予松山藩の下級武士の子として生まれた。

好古は三男坊であった。出世時は七ヶ月の早産で成長が危ぶまれた。

幼少期はいつも鼻水を垂らし、泣いてばかりいたという。

また、彼の家は貧しかったため、

米つきや風呂焚きなどをして本を買い、独学で学んだ。

真之は好古の九歳年下の弟として生まれた。

その真之は好古の工面した金で、

海軍士官となるまで勉学に励む事が出来た。

真之は好古に生涯、頭が上がらなかった事だろう。

明治八年(一八七五)、好古は大坂へ出て師範学校に入り、

そのまま卒業して小学校教師となった。

そんな時、『西南戦争』が起こる。

好古は考えた。

『小学校教師よりも将来性がある』ということで、

陸軍士官学校へ入学して、騎兵科を専攻した。

動機は少し不純かもしれないが、

当時はこんなものであったのだろう。

しかし、この好古の決断がなければ、

後の日露戦争の活躍もなかっただろうし

弟の秋山真之が誕生しなかったかもしれない。

それだけ、重要な方向転換であった。

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2008年06月17日