2008年07月31日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第七回)







四国を統一した長宗我部元親は羽柴秀吉に屈せず、

臣従するつもりもなかった。

元親には反骨精神が強かったのだろう。

信長にも屈せず、秀吉にも屈せず

誰かの支配下に入る事を是としなかったのであろう。

多少は傲慢さがあったのだろうか。

あるいは戦って勝てる自信があったのだろうか。

四国を統一していく過程で元親の性格も

変わって行ったのかもしれない。

しかし、それは四国という島の中での考え方であったのだろう。

当然、信長も秀吉も元親に対して怒りを向けた。

二人とも討伐軍を元親に向ける。

信長の時は『本能寺の変』に救われたが、

秀吉の時はそうはいかなかった。

四国を統一したといっても、

その地の覇者としていられる時間は元親には、

わずかしか与えられなかった。

天正十三年(一五八五)、秀吉の弟である羽柴秀長を総大将にした

十万の軍勢が四国に攻め込んできた。

その軍勢の中には宇喜多秀家や小早川隆景など

錚々(そうそう)たる武将達もいた。

元親には充分に迎撃する時間も与えられなかった。

予想以上に羽柴軍は強かった。

阿波と伊予の諸城は次々に落とされ、

長宗我部軍も次々と撃破された。

自慢の『一領具足』達も、全く歯が立たなかった。

先ず羽柴軍の装備に驚いたという。

立派で頑丈そうな武具に鉄砲なども大量に所持していた。

そして、何よりも秀吉の軍勢は『兵農分離』がされており、

兵士そのものがプロであった。

『一領具足』とは根本的に違っていたのである。

この時、元親は己の自信が

過信であった事を想い知らされたのであった。

『例え、充分に迎撃の準備が整っていても勝てない』と

心から想った事だろう。

そして秀吉の軍勢、つまり上方の物資の豊富な軍勢とは

所詮、違っていたのである。

自分達がいかに時代遅れであったかも想い知ったのである。

結局、長宗我部軍は成すすべも無く降伏した。

父の代から精魂込めて必死に手に入れた

四国の領土を失う事になった。

元親は土佐一国を安堵されて、秀吉に臣従した。

コウモリ達の住む島は

天下の流れに組み込まれることになったのである。

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2008年07月30日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第六回)







『本能寺の変』が起きた。

この出来事によって、どれだけの武将の運命が変わったのだろうか。

織田信長の死によって討伐を逃れた勢力もあれば、

窮地に追い込まれた勢力もあっただろう。

長宗我部元親はどうだったであろうか。

本能寺の変後、羽柴秀吉が明智光秀を討ち取り、

織田政権の主導権を握ることになる。

しかし、その秀吉の前に柴田勝家が立ちはだかる。

秀吉と勝家による後継者争いが勃発する。

しかし、『賤ヶ岳の戦い』で秀吉が勝家を降していた。

織田家の基盤を完全に引き継いだ形になった。

天正十二年(一五八四年)、『小牧長久手の戦い』が起こる。

秀吉と織田信長の次男である信雄と信雄を助ける

徳川家康の連合軍との戦いであった。

この時、元親は織田信雄と徳川家康に味方している。

この時、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を打ち破っている。

そして、この『小牧長久手の戦い』は

両者引き分けに終わるのである。

長宗我部元親は中央が混乱している間に

西園寺公広(さいおんじきんひろ)や河野通直(こうのみちなお)を

降伏させ、完全に伊予を制圧した。

ここに完全に四国を統一したのであった。

四国はコウモリ・長宗我部氏のものとなった。

長宗我部元親は自信を揺るぎないものとした。

この時点で、本州をほぼ支配下に置いていた秀吉に対して、

元親は臣従しない道を選んだ。

そんな元親に対して秀吉は武力で屈服させる道を選んだのであった。

長宗我部元親が四国を統一して一ヶ月も経っていなかった。

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2008年07月29日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第五回)







『あれは鳥なき島のコウモリ』と

織田信長は長宗我部元親を評価した。

信長は元親のことをあまり高く評価していなかったようである。

それ故、強敵がいないような地で勢力を広げている

元親をコウモリと評したのであろう。

讃岐と阿波を手に入れた元親は伊予に攻め込んでいた。

伊予には名門で強力な水軍を持っていた

河野氏などが強力な抵抗をしていた。

そんな時、元親の元に信長から接触があった。

『土佐と阿波の所領を安堵するので我が軍門に降るのだ』

という内容であった。

これ以上、長宗我部が大きくなるのを警戒したのかもしれない。

外交政策を強硬路線に転換した。

しかし、元親はこれを拒否した。

当時、すでに畿内を統一し日本の中心部を手に入れていた

信長の眼は西へと向いていたのである。

元親は対信長戦略をどのように持っていたのだろうか。

信長の通告を拒否したからには実力からいうと、

今までのような対等な同盟関係などありえなかった。

しかし、元親にはその辺が判っていなかったのだろうか。

四国で最強の長宗我部という自負があり、

その周囲には織田信長始め強大な敵が

たくさんいた事も関係なかったのかもしれない。

元親の態度に激怒した信長は

三男の神戸信孝を総大将に四国征伐の準備をする。

また、十河氏を援助して長宗我部の領土に侵攻させたりしている。

しかし、想いがけない出来事が長宗我部家を救うことになる。

元親とも親交のあった明智光秀が『本能寺の変』を起こすのである。

ここに織田信長は此の世を去り、四国遠征も中止された。

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2008年07月28日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第四回)







『一領具足(いちりょうぐそく)』を率いて

長宗我部元親は土佐を統一した。

この時に活躍したのが弟達であった。

香宗我部親泰(こうそかべちかやす)や

吉良親貞(きらちかさだ)であった。

天正三年(一五七五)、吉良親貞は『四万十川の戦い』で

一条兼定(かねさだ)を撃破し、

この勝利により土佐統一を決定的にした。

吉良親貞は武勇に秀でていたのである。

一方、同じ年に織田信長と徳川家康の連合軍が

『長篠の戦い』において、武田勝頼の軍を撃破している。

信長との接触する時が近づいていた。

元親も嫌でも意識していた事だろう。

元親は土佐統一後、さらに侵略の手を進めた。

伊予、阿波、讃岐と毎年のように出兵していた。

その行動を可能にしたのが織田信長との同盟であった。

信長と同盟を結んだ事により四国を縦横無尽に暴れまくった。

ちなみに、この信長との同盟に精力的に活躍したのが

香宗我部親泰であった。

彼は外交手腕に長けていたのである。

そして当面の敵は信長に破れて、

勢力を落としていた三好氏であった。

三好氏の一族である十河在保(そごうまさやす)や

三好康長(みよしやすなが)らの強い抵抗に遭いながらも

何とか優勢を保っていた。

しかし、そんな時に頼みの弟である吉良親貞が此の世を去った。

三五歳の生涯であった。

長宗我部にとっては大きな痛手であった。

それでも何とか踏ん張り、讃岐と阿波を制圧した。

そして、元親の次男である親和(ちかかず)を

讃岐の有力豪族である香川氏に養子に入れる事に成功する。

天正八年(一五八〇年)、

長宗我部元親は讃岐と阿波を手に入れたのであった。

さて、残るは伊予であった。

伊予を手に入れれば四国を統一する事が出来る。

元親は自信があったと想う。

『ここまで来たら必ず四国統一を成し遂げる』と

想っていたに違いない。

しかし、その自信に陰を落とす人物がいた。

元親の活躍が気に入らない人間がいた。

織田信長であった。

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2008年07月27日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第三回)







長宗我部家は元親が家督を継いだ時、彼の元に一丸となっていた。

彼に幸いしたのが、

家督を継ぐ時に目立ったお家騒動が無かったので

苦労せずに当主の座に就けた。

私はやはり父親である国親が優れていたのだと想う。

子供達をしっかりと教育していたのである。

親泰を香宗我部家に養子に出したり、

海賊衆の主に娘を嫁がせたりと毛利元就を彷彿させる。

少しでも家督争いの火種を除いておく事も忘れなかった。

それと同時に養子に出す事で勢力も拡大する訳だから

一石二鳥の戦略であった。

長宗我部元親は毛利元就のような父親に育てられたのである。

元親は恵まれていたのかもしれない。

そして父親の遺志を継ぎ、更なる勢力の拡大を目指す。

その原動力になったのが父親が創り上げた

『一領具足』の制度であった。

普段の日は農作業に励み、『いざ召集!!』という時に

常備している鎧兜や武器などの

一領(ひとそろえ)の具足(武具)を付けて

馳せ参じるというシステムであった。

農作業に出る時に具足と兵糧を

槍に結び付けて立てて置いたのである。

明治時代に北海道へ警備と開拓を兼ねて渡った

『屯田兵(とんでんへい)』のようなものであろうか。

この一領具足達は戦の度に借り出される農民が多かったのだろう。

彼らは正規の武士ではないが、

その兵力と行動力は敵にとっては脅威であっただろう。

元親は農閑期になると、

この一領具足達を積極的に総動員して勢力拡大を行なっていく。

国親が世話になった一条氏と結び、

東土佐の猛将・安芸国虎(くにとら)や

親の仇ともいえる本山氏を次々と滅ぼしていく。

そして、弟の親貞を吉良氏に養子に出して

吉良親貞(きらちかさだ)と名乗る。

もう一人の弟が父の代に香宗我部家へ養子に出ており、

香宗我部親泰(こうそかべちかやす)として兄の元親を支えている。

戦も強いが政略も巧みである。

更には、一条兼定(かねさだ)に圧力をかけて

土佐から追放するのである。

父・国親が世話になった一条房家は既に此の世の人ではなかった。

大恩ある一条氏に平然と刃を向けるあたりは

戦国大名の非情さを持っていた長宗我部元親であった。

そして、ここに長宗我部家念願の土佐統一を達成したのであった。

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2008年07月26日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第二回)







長浜城を落城させた戦いが、長宗我部元親の初陣だったという。

その年齢は二十二歳であった。

当時の武将の初陣としては少し遅い。

何故であろうか。

恐らく、父親の国親が『臥薪嘗胆』を実行しており、

『富国強兵』に務めていた結果、

出来るだけ戦を控えていたのだろう。

それ故、元親の初陣が遅れたのだ。

そのおかげで弟の親貞と一緒に初陣を飾る事になったのである。

この親貞は後に吉良家を継ぐ事になる。

本格的に本山氏との戦いが本格的なものになってきた。

長浜城を落とされた本山茂辰(しげとき)は浦戸城に籠城する。

国親は浦戸城を囲み、本山氏の糧道(りょうどう)を断った。

落城寸前であったが、ここで異変が起こるのである。

国親の体調がおかしくなった。

仕方なく、岡豊城に撤退し療養するが、

その甲斐も無く五十七歳で此の世を去った。

弱々しいと想っていた元親の見事な若武者ぶりに

安心したのだろうか。

これから、長宗我部家が飛躍しようとする前に

『臥薪嘗胆』の波乱の人生を閉じた。

国親は元親にたいして

『本山氏を討つ事が我が供養と想え。

私が死んだら十七日の法要の後、

喪服を脱ぎ捨て甲冑を着て軍議をするのだ。

必ず、約束を守るのだ。

私は軍神となって長宗我部家を守っている』と遺言したという。

だが、そんな元親が本山氏どころか、まさか土佐を平定し、

四国全土の覇者になるとは国親も想っていなかっただろう。

余談になるが、養育係の一条房家が二階の座敷で涼んでいると

少年の国親がやって来た。

房家が冗談半分に『ここから庭に飛び降りたら、

長宗我部の家を再興してやろう』と言うと、

国親は迷うことなく飛び降りたという。

そして房家は国親の幼き決死の覚悟に感動し、

何とか領土の一部を取り戻し長宗我部家を再興したという。

その長宗我部家の隆盛を夢見ながら

元親や一族達へと夢を託すのであった。

そして、『鬼若子(おにわこ)』『土佐の出来人』長宗我部元親は

長宗我部二十一代当主として家督を相続した。

すでに、元親が優れた武将であるという認識が

家中に広まっていたのだろう。

その家督相続に誰も異を唱えるものはいなかった。

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2008年07月25日

コウモリ達は見ていた 長宗我部元親(第一回)







戦国時代、四国の覇者として大暴れした武将が

長宗我部(ちょうそかべ)元親であった。

私は長宗我部という名前に興味を持った。

珍しい名前はたくさんあるが、何故か印象に残る名前であった。

長宗我部氏は渡来人の秦(はた)氏を祖とするという説がある。

そのルーツをたどると秦の始皇帝までさかのぼるという。

長宗我部氏は平安時代末期に土佐に移住して、

南北朝の頃には土佐の土豪として勢力を築いていた。

元親の父である国親が大変な苦労人であった。

国親は幼い頃に落城の憂き目にあっている。

父親である兼序(かねつぐ)は国親が自害する前に、

『家を興し、敵を滅ぼし、会稽(かいけい)の恥を雪げ(そそげ)。

そして、我が敵(かたき)を獲るのだ』と遺言したという。

国親はわずか六歳であったという。

何年か経ち、国親を養育した譜代の家臣である一条房家は

国親の為に長宗我部に敵対する諸豪族を必死に説得して

長宗我部家の領地の一部を取り返してくれたのである。

この時、国親は父の遺言を守り、飛躍する機会を待ったのである。

『臥薪嘗胆』である。

そして常時、長宗我部家が栄える為の方策を練っていたという。

まず、吉田城の吉田周孝(ちかたか)と結ぶ事に成功する。

吉田周孝は智謀、武勇ともに優れていた。

国親にとっては頼もしい味方であった。

その周孝の進言で内政に力を入れ

善政を敷くことによって国力を養い、軍備の充実に努めたのである。

『富国強兵』である。

また、農民の中に有能な人間がいると武士に取り立てた。

ここに『一領具足』が生まれたのである。

そして常に慎重な言動を心掛けていたという。

国親は毛利元就や北条早雲などの智謀を持っていたようにも想える。

国親がこうして『富国強兵』に頑張っている間に

土佐の国内でも戦国時代真っ盛りであった。

そして時は熟したとばかりに軍事行動を起こした。

南の大津城を落城させ、

これを救援しようとした豪族達を降伏させた。

そして、毎年のように軍事行動に出て勢力圏を拡大していった。

更に、東の香宗我部(こうそかべ)氏には

三男の親泰(ちかやす)を養子に入れることに成功した。

事実上、香宗我部氏の領地も手に入れたのである。

また、土佐水軍を率いる武将にも娘を嫁がせている。

そんな長宗我部氏の躍進に脅威を持ったのが

長宗我部氏を滅亡寸前に追い込んだ本山氏であった。

弘治二年(一五五六)、国親は本山氏への攻撃を開始するのである。

そして永禄三年(一五六〇)、

本山氏の支城である長浜城を攻め落とした。

この時、初陣として出陣した『姫若子(ひめわこ)』とあだ名された

優しく大人しい色白の美青年である国親の長男が大活躍した。

その長男こそ、二十二歳の長宗我部元親であった。

『姫若子』が『鬼若子(おにわこ)』となった瞬間であった。

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2008年07月24日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(最終回)







長安城の完成、官僚の俸給の引き上げ、民衆に対する大減税、

残酷な刑罰の廃止、思想の自由を認め、匈奴との融和政策など。

これらの政策を行なったのは呂后であった。

宮廷内の権力闘争においては恐ろしい人間であったが、

天下万民に対しては善政を敷いていたのは驚きであった。

また、外征などを極力減らした結果、

万民には平和な生活が訪れていた。

国民生活の安定に気を遣っていたのである。

この辺は只者ではないのである。

流石に権力を握るだけの力はあったのである。

周囲の家臣達も実力を認めざる負えなかったのだろう。

後の武帝などの黄金時代の基盤を作ったとも言われている。

それでも、宮廷内では残忍な権力争いや粛清に力を入れていた。

そして一族を重用し重職に就け、我が世の春を見ていた。

ある日『日蝕』が起こっても『私のせいだよ』と平気で言った。

だからと言って慌てる事はなかったのである。

天変地異が起きようとも平然としていた。

彼女は自分の人生をどのように想っただろうか。

劉邦に嫁いで以来、彼に苦労させられた生涯と、

彼の創り上げた王国を守る『守成』の役割を

彼女なりに果たしたのであったといえると想う。

そして、彼女の長い生涯が閉じようとしていた。

呂氏一族を重職に配置して万全の体制を作り上げたのであった。

少なくとも彼女は、そのつもりであった。

紀元前一八〇年、呂后はその激動の生涯を閉じた。

そして、その死をきっかけに元勲二人が謀反を起こした。

周勃(しゅうぼつ)と陳平(ちんぺい)により、

呂氏の一族をことごとく捕らえ、問答無用で殺害した。

呂后の血縁に繋がるものは言うまでも無く、

少しでも関係のある者は容赦なく殺害された。

呂氏一族はここに根絶やしにされたのである。

一族の中で生き残ったのは魯元公主(ろげんこうしゅ)と

その息子だけであった。

もし、呂后がもう少し長生きしていたら、自分が帝位に就くか、

あるいは呂氏一族の誰かを帝位に就けていただろうか。

恐らく、呂氏の誰かを劉家の者として

帝位に就けていた可能性はあったと想う。

しかし、周勃と陳平という劉邦が掛けていた保険により、

劉家の社稷は守られたのであった。

その後、景帝や文帝あるいは武帝という名君を輩出し

漢帝国は黄金時代を迎えたのであった。

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2008年07月23日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(第八回)







高祖劉邦が此の世を去ると呂后の子で太子の恵帝が即位する。

この恵帝を後見するという形で呂后が実権を握ったのである。

恐れるものは何もないのであった。

後継者争いを演じた戚姫(せきひ)と

その息子の如意(にょい)が当然、粛清のターゲットにされた。

如意が毒殺された。

次に憎らしい戚姫の番であった。

彼女を捕まえると、すぐには殺さなかった。

戚姫としては、すぐに殺して欲しかったことだろう。

先ず初めに手足を切られた。

次に目をえぐり出され、耳を潰し、

薬を飲ませて声が出ないようにされてしまった。

呂后はこの戚姫を『人豚(じんてい)』と名付けて、

トイレの中に置いて見世物にしたのであった。

その戚姫の姿を我が子の恵帝に見せて供に楽しもうとした。

しかし恵帝はこれを見ると、ショックを受けてしまた。

『これは人間のすることではない』と言い放ったという。

そして、この一件が影響したのか、

恵帝は廃人のようになり二十三歳の若さで此の世を去った。

この死を聞いた呂后には、

すでに親としての心を持たなかったのだろうか。

恵帝を情けないとさえ想ったのかもしれない。

我が子の早すぎる死を彼女はどう想ったのだろうか。

余談になるが、恵帝はとても優しい人間であった。

呂后が戚姫の子である如意を殺そうとする件を察知すると、

如意と寝食を供にしたりして守っている。

それでも、隙を突いて如意を殺したのだろう。

恵帝の死後は呂后の目に敵と映ったものは全て葬り去った。

そして、恵帝の代わりを連れてきた。

しかも氏素性も判らない幼児であった。

この幼児を皇帝の座に付けるのである。

自分の意のままに操れれば誰でも良かったのだろう。

もちろん、家臣の中には異を唱える者もいた。

しかし、容赦なく殺している。

その皇帝が一度、彼女に歯向かうと、

これも容赦なく殺した。

天下の政(まつりごと)は全て彼女が行なっていた。

そして、自分の実家である呂家の人間を取り立てていき、

高い地位を与えていった。

周囲を自分の身内で固めた。

それと、元勲として残っていたのが

周勃(しゅうぼつ)と陳平(ちんぺい)であった。

ある日、日蝕の為に太陽が消え、夜のようになった。

呂后は冷静さを保ちながら、『私のせいだよ』と確信したという。

その時、何を想ったのだろうか。

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2008年07月22日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(第七回)







劉邦の晩年、深刻な後継者問題が発生したのである。

劉邦には寵愛していた若く美しい戚姫(せきひ)の生んだ

如意(にょい)という子を太子にしたかったらしい。

そして戚姫も当然に、それを望んでいた。

そこには当然、女の戦い、

つまり呂后との戦いも水面下で行なわれていた事だろう。

そこで、呂后は当時、

隠居していた張良(ちょうりょう)に相談する。

張良の策は

『劉邦がどうしても家臣にしたかった賢人が三人いたが、

どうしても断られてしまう。

この三人を呂后の子である太子の側近とすれば良いでしょう』

と進言した。

そして、どのような手を使ったか判らないが

三人の賢人を太子の側近としたのである。

その様子を見た劉邦は如意を太子に付けることを諦めたという。

『あの三人の賢人が太子に仕えたとなれば、諦めざる負えまい』

と想ったようだ。

それくらい、優秀な人物だったのだろうか。

劉邦に仕えずに太子に仕えるのも良く判らないが

働き甲斐があるとでも想ったのだろうか。

また、張良の他にも他の家臣達にも知れるところとなり、

猛烈な反対に遭い、劉邦は諦めたのである。

そして、劉邦は間もなく此の世を去った。

この瞬間から呂后の天下となったといっても過言ではないだろう。

困ったのが戚姫であった。

戚姫は覚悟していただろう。

それと同時に、どうにかして逃げたかっただろう。

だが、蛇に睨まれた蛙であった。

先ず手始めに呂后は戚姫の子である如意を毒殺した。

これが恐ろしい呂后の物語の始まりであったといえるだろう。

その呂后が『中国三大悪女の一人』となったエピソードを

次回紹介しましょう。

今日は、気分が優れないので止めておきます。

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2008年07月21日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(第六回)







英布という武将は元々は項羽の家臣であり、

猛将として大活躍した武将であった。

若い頃、刑罰を受け額に入れ墨を入れられた事から

『黥布(げいふ)』の名でも有名である。

私は項羽の家臣として一番に挙げる人間が、この英布である。

その英布が項羽を裏切り、劉邦に味方した。

その裏切りは項羽にとっては、大変な痛手であったのである。

項羽の敗北の要因の一つでもあったと私は想う。

そして劉邦により、淮南王(わいなんおう)として封じられた彼は

数々の粛清を見るうちに『次は自分である』と想ったに違いない。

そして、そのきっかけはつまらない事であった。

英布の側室に『手を付けただろう』と英布が疑った家臣がいた。

その家臣は英布に殺されるのを恐れ、劉邦の元へと逃げて

英布の反乱の計画を密告した。

これにより、追い詰められた英布は謀反を起こす。

追い詰められたというよりも恐らく謀反を起こす気でいたのだろう。

この謀反は大規模なものになり、

劉邦の従兄弟である劉賈(りゅうか)を討ち取るなど

一刻も早く鎮圧しなければならない状況であった。

流石は猛将・英布である。

そこに病気がちの劉邦が自ら親政してきた。

乱戦の中、劉邦も流れ矢に当たってしまう。

大変苦戦したが、何とか鎮圧に成功する。

英布は逃走する途中で地元の人間に殺害されてしまった。

そして、劉邦はこの戦いで受けた矢傷が元で更に病状が悪化した。

劉邦は自分の死期を悟った。

そんな劉邦に呂后は

『陛下の死後どうすればよいのですか』と聞くのである。

すると劉邦は呂后に対して『蕭何(しょうか)に任せておけばよい。

その次は曹参(そうしん)に任せれば良い』と言い、

更に『その次は』と呂后は聞いた。

『その次は王陵(おうりょう)が良い。

しかし王陵は真面目すぎるので、

陳平(ちんぺい)を補佐に付けると良いだろう。

だが陳平は頭が切れすぎるので、全てを任せるのは危険である。

社稷(しゃしょく)を守るのは必ずや周勃(しゅうぼつ)であろう』

と告げた。

呂后は更に聞く。

『その次は』と。

すると劉邦は『お前はいつまで生きるつもりだ。

その後はお前には関係ない』と言った。

そして、劉邦の人を見る目が確かである事を証明することになる。

紀元前一九五年、稀代の英雄・高祖劉邦は此の世を去った。

その瞬間、国政の実権は全て、呂后が握る事になった。

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2008年07月20日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(第五回)




日本の題名で『項羽と劉邦』という

中国のテレビドラマのビデオを一式購入したことがある。

そのビデオの中国名は

『淮陰候(わいいんこう) 韓信』というものであった。

そして、その主役は映画『覇王別姫(はおうべっひ)』で

主役を演じた役者であったのを覚えている。

ちなみに『項羽と劉邦』というのは名ばかりで主役は韓信であり、

韓信の物語であったのを覚えている。

そんな韓信が捕まった。

彼が劉邦の元へ向かう前に側近に独立する事を進められている。

しかし、劉邦が自分を粗末に扱うはずが無い

という考えを持っていただろう。

それ故、その勧めを断り劉邦の元に現れ捕まったのである。

恐らく、劉邦は殺すつもりは無かっただろうと私は想う。

ところが、その気持ちを知っている呂后は将来の事を考えて、

『彼が危険である』と想っていたに違いない。

そして案の定、劉邦の留守中に韓信は謀反を起こそうとしたが、

蕭何の策により捕らえられた。

そして呂后は迷うことなく韓信を斬った。

蕭何や他の側近達は『陛下が戻られるまで待っては如何でしょうか』

とでも、言っただろう。

しかし、呂后は独断で韓信を斬ったのである。

その報告を聞いた劉邦は悲しんだと言う。

一番、現実を判っていたのは呂后であったのかもしれない。

呂后は韓信はじめ軍功のある武将達に猜疑心を向けていく。

彭越(ほうえつ)が『反乱を企んでいる』

という讒言(ざんげん)があった。

彭越はすぐに捕らえられるが、

殺すに忍びない劉邦は同情して蜀へと流罪にした。

しかし、その途中に彭越は惨殺された。

呂后によって。

そして彭越の死体を『輪切り』にして、諸侯へと送ったという。

私は彭越の件は呂后によって仕組んだ罠だったと想っている。

盗賊上がりの彭越を警戒したのだろう。

そして、諸侯への見せしめでもあったのかもしれない。

『狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹らる(にらる)』

優れた猟犬も獲物がいなくなれば用済みとされる。

戦乱の時に武勇に優れた家臣は必要とされるが、

平和になると用済みになるということであった。

しかも、それらの武勇に優れた家臣は

危険な存在として警戒されるのである。

そして、猛将・英布が反乱を起こす事になる。

恐らく、精神的に追い詰められたのかもしれない。

呂后によって。

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2008年07月19日

猟奇的な彼女 劉邦の妻 呂后(第四回)




劉邦が天下を獲った時、

論功行賞の際、第一の功労者を蕭何(しょうか)とした。

『自分が負け続けている時に

後方からの支援を滞りなく成し遂げてくれた。

そのおかげで、我らは思う存分に動く事が出来た』と述べた。

普通の大将ならば、戦場で活躍した武将を挙げるところだろう。

しかし、劉邦は普通の大将ではなかったのだ。

それ故に大勢の豪傑や賢人が付いて来たのだろう。

そして、劉邦は家臣に何故、自分が天下を獲れたかを聞いた。

すると家臣達は『陛下は傲慢で人を侮るところがあります。

これに対して項羽は礼儀正しく人に情を示します。

しかし陛下は手柄があったものには惜しみなく恩賞を与え、

利益を分け合います。

それに比べ、項羽は賢者を大切にせず手柄のある者に

恩賞を与えませんでした。

それ故に陛下が天下を獲られたのです』と家臣が言った。

すると劉邦は『確かにそういう理由もあるだろう。

しかし、策を立て勝ちを千里の遠くから決することが出来る智謀は

私は張良には及ばない。

また、民を治める能力は蕭何には及ばない。

そして、軍を率いて勝ちを収める能力は韓信には及ばない。

私は、この三人の英傑を使いこなす事が出来た。

しかし項羽は一人の英傑も使いこなす事が出来なかった。

それが私が天下を獲れた要因であり、

項羽が天下を獲れなかった要因である。』と説明したという。

劉邦がいかに人の使い方が大切かを述べた逸話である。

そんな劉邦の天下の元でも反乱が相次いだ。

そして異民族の匈奴までもが攻め込んできた。

劉邦は自ら親政して指揮に当たった。

そんな時に『韓信が反乱を企てている』という密告があった。

家臣達は討伐しようと言うものが多いが、

参謀の陳平は

『軍事の天才である韓信とまともに戦ってはいけません。

ここは彼を騙して捕らえるべきです』と進言した。

劉邦はこの進言に従い、『巡幸に出るから来て欲しい』と

韓信に伝え、その言葉を信じ

彼がやって来たところを捕らえたのである。

ここに『国士無双』と言われた

天才軍略家韓信の運命も決まったのである。

そして、劉邦が遠征中に留守を守る中心人物が

宰相となった蕭何ともう一人が皇后である呂后であった。

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