2008年07月06日

庄内藩財務大臣 本間光丘(第二回)







庄内藩は何故、このように財政が破綻寸前になったのだろうか。

その経緯を追ってみたい。

江戸時代中期の日本は商業が発達し、

農業が消費生活に追いつかなくなっていった。

当時は藩の収入として入る米を貨幣に換えていたから

困ったものであった。

当然、全国の藩財政は困窮の一途をたどったのであった。

庄内藩でも一年分の年貢収入一万二千五百両に対して

藩の年間支出は三万九千両、

そのうちの三万二千両は江戸における支出であった。

江戸の物価が高いせいもあるし、

名門である故に江戸での体裁を整えるためにも

金が掛かるのであったのだろう。

収入の三倍強の支出が出ては、当然赤字が大きくなる。

庄内藩では、藩士に対して百石当たり二十石の献上米を命じていた。

いわゆる『賃金カット』である。

さらに宝暦五年(一七五五年)には

『宝五の飢饉』と呼ばれる大凶作が東北地方を襲った。

更に宝暦十三年にも庄内地方に凶作が襲ってきた。

度重なる災害に加えて、七代藩主の酒井忠寄(ただより)に

加賀百万石の大大名前田家より嫁を迎えた。

これにより交際が華美になり、今でいう『交際接待費』が膨らみ、

財政を圧迫したのであった。

災害の次は人災であったとは言い過ぎだろうか。

そして、幕府より日光東照宮の修復を命じられるなど

出費が更に膨らんだ。

そんな庄内藩は倒産寸前であった。

そんな庄内藩を継いだ九代藩主・酒井忠徳の代になり

再建に乗り出すようになった。

忠徳は家老の水野勘解由(かげゆ)と共に

財政立て直しの策を練るのである。

そんな時に、度々献金してくれる

酒田の豪商である本間光丘(こうきゅう)を起用したのであった。

忠徳は自筆で光丘へ手紙を書き、

藩財政の改革に『力を貸して欲しい』と

全面的に依頼したのであった。

そして、光丘は『小姓格兼庄内御家中勝手向き取計らい』という

長い名前の役職を与えられ改革に乗り出したのであった。

勝手向きというからには当然、財務の改革が中心であっただろう。

さて、豪商・本間光丘のお手並み拝見である。

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posted by よしの at 18:31| 千葉 晴れ| Comment(2) | TrackBack(1) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おひさで〜す^^
ナカオレ!だったの?
かわいそう・・
SL世界にきたら・?
あたしが いかせてあげたいわ^^
Posted by ハミー at 2008年07月06日 20:11
ハミーさん、ありがとうございます。
SL世界に行きます。
Posted by 勝海舟 at 2008年07月07日 20:27
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