会津藩主・保科正之は
『将軍の弟であり、奥州の要』
という気持ちを強く持っていた。
この正之の教えが
幕末の会津藩まで影響するのである。
『徳川幕府への忠義』
幕府の中でも
正之は
『言うべきことは言い、行動すべきことは行動した』
大胆で剛直な一面を持っていた。
家光も心強く想っていた事だろう。
家光は
正之に自分と同じ色の
『直垂(ひたたれ)』
の着用をさせたりと
自分と同じようにさせたらしい。
家光は弟の保科正之を
『将軍・家光と同じ存在』として
周囲に示したかったのである。
何故ならば、家光は死期を悟っていたのだろう。
慶安四年(一六五一)の或る日
大奥から家光の寵臣(ちょうしん)が急ぎ現れた。
堀田正盛(ほったまさもり)であった。
堀田正盛
⇒春日局の義理の孫にあたる。
春日局の夫である稲葉正成の前妻の娘の子である。
この正盛が
正之の前に現れ
『肥後守殿、上様の元へお急ぎください』
正之は家光の元へ向かった。
家光は正之の手を取り
『幼い我が息子を、そなたに託したい』
『引き受けてくれ』
『我が命に懸けて家綱様をお守りいたします。』
『ご安心ください』
『その言葉を聞いて安堵した』
『心残りは無い』
と言い、眼を閉じた。
この時の遺言を
『託孤(たっこ)の遺命』という。
そして、正之との対面から二時間後に
此の世を去ったといわれている。
享年四十八歳であった。
徳川幕府を磐石にした
『生まれながらの将軍の生涯』を終えた。
堀田正盛は殉死した。
そして、間もなく四代将軍・家綱が誕生した。
この時、十歳であった。
『託孤の遺命』を受けた正之は決意した。
『幕府の為、家綱様の為に、この身を捧げよう』
保科正之
兄・家光の忘れ形見である
四代将軍・家綱の補佐役となった。
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やはり会津藩の精神は受け継がれたのでしょうな。
仰る通り、その信頼関係故に幕末の会津藩は
徳川家の為に朝敵となってしまったのでしょうね。