2008年11月25日

聖人の如き人 保科正之(第十二回)







会津藩主・保科正之は

『将軍の弟であり、奥州の要』

という気持ちを強く持っていた。

この正之の教えが

幕末の会津藩まで影響するのである。



『徳川幕府への忠義』



幕府の中でも

正之は

『言うべきことは言い、行動すべきことは行動した』

大胆で剛直な一面を持っていた。

家光も心強く想っていた事だろう。

家光は

正之に自分と同じ色の

『直垂(ひたたれ)』

の着用をさせたりと

自分と同じようにさせたらしい。


家光は弟の保科正之を

  『将軍・家光と同じ存在』として

        周囲に示したかったのである。


何故ならば、家光は死期を悟っていたのだろう。


慶安四年(一六五一)の或る日

大奥から家光の寵臣(ちょうしん)が急ぎ現れた。

堀田正盛(ほったまさもり)であった。


堀田正盛

 ⇒春日局の義理の孫にあたる。

  春日局の夫である稲葉正成の前妻の娘の子である。


この正盛が

正之の前に現れ


『肥後守殿、上様の元へお急ぎください』


正之は家光の元へ向かった。

家光は正之の手を取り

『幼い我が息子を、そなたに託したい』

『引き受けてくれ』



『我が命に懸けて家綱様をお守りいたします。』

『ご安心ください』



『その言葉を聞いて安堵した』

『心残りは無い』

         と言い、眼を閉じた。

この時の遺言を

『託孤(たっこ)の遺命』という。


そして、正之との対面から二時間後に

此の世を去ったといわれている。

享年四十八歳であった。

徳川幕府を磐石にした

『生まれながらの将軍の生涯』を終えた。

堀田正盛は殉死した。



そして、間もなく四代将軍・家綱が誕生した。

この時、十歳であった。


『託孤の遺命』を受けた正之は決意した。

『幕府の為、家綱様の為に、この身を捧げよう』


保科正之

兄・家光の忘れ形見である

四代将軍・家綱の補佐役となった。

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posted by よしの at 22:24| 千葉 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
凄い信頼関係ですね。
やはり会津藩の精神は受け継がれたのでしょうな。
Posted by さんぴん太郎 at 2008年11月26日 22:25
さんぴん太郎さん、ありがとうございます。
仰る通り、その信頼関係故に幕末の会津藩は
徳川家の為に朝敵となってしまったのでしょうね。
Posted by 勝海舟 at 2008年11月27日 19:34
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