秀吉は
『天下の仕置きが出来る者』として
三人の名を挙げたこともあります。
『小早川隆景と堀直政、そして直江兼続』
特に隆景と兼続の評価は高かったといわれています。
しかし、こうも言っています。
『兼続は智恵が足りず、隆景は勇気が足りない』
こんな事をいう秀吉は
『流石の二人も自分に取って代わることは出来ない』
ということを
言いたかったのでしょう。
それでも秀吉はこの二人を気に入っていたようです。
小早川隆景と共に秀吉に器量を認められた直江兼続
彼は上杉景勝の重臣であります。
幼少の時から利発だった彼は
景勝の近習となる。
そして
戦国の巨星・上杉謙信が他界すると
養子になっていた景勝
と
もう一人の養子である上杉景虎
との間で跡目争いが起こる。
『御館の乱』であります。
彼・直江兼続は
この戦いで
上杉家の一門衆を調略したり勝利に貢献します。
兼続、十九歳でありました。
『なかなかの切れ者』
そんなふうに想われていたようです。
そして
二十二歳の時
越後の名家である直江家を継ぎます。
当時、直江信綱が非業の死を遂げたため
直江景綱の娘・お船が未亡人になっていました。
そのお船の婿に兼続が治まったのです。
ちなみにお船は二十五歳でした。
そして与板城主になりました。
兼続は与板城主時代
一、治水により増収を図ったり
二、低い税をかける等
領民に対して善政を行いました。
兼続は
トコネリの木を
越後全体に植えさせたといいます。
これは越後上杉家の宰相としての仕事ですね。
その理由としては
この木が戦争の時に
松明(たいまつ)として使えるためであります。
戦時に備えた政策でありました。
この頃でしょうか。
太閤秀吉との交流が始まったのは?
秀吉は上杉家に友好的だったように想います。
そんな景勝と兼続の前に
立ちはだかる敵が現れます。
上杉家にとっては身近な存在だったでしょう。
越後の北に領地を持つ
新発田重家
『新発田重家の叛乱』です。
この叛乱に対して兼続の動きは迅速だった事でしょう。
彼は奇襲を仕掛け
新発田勢を殲滅します。
『軍神・謙信公を彷彿とさせる』
そんな評価をする者もいました。
更に
上杉家に逆らう佐渡の勢力をも平定します。
その後も小田原征伐
また朝鮮出兵においても
兼続は上杉景勝の参謀として
力量を発揮し
武勲を挙げていきます。
兼続の活躍もあってか
この時の上杉家は
豊臣政権の一員として重要な役割を担うまでになっていました。
後に豊臣政権の
『五大老』の一人に景勝は任命されます。
秀吉は上杉家を信頼もしていたのでしょう。
上杉家を北の押さえとして
『会津九十万石』に転封しました。
そして
この時
直江兼続に
出羽米沢に三十万石を与えます。
⇒秀吉の命令によるものです。
兼続もまた、秀吉に気に入られていた故に
このような命令が発せられたのでしょう。
兼続の主・上杉景勝は全く嫌な顔をせず
この命令を受けたとのことです。
しかし
兼続は独立大名として振舞う事はありませんでした。
『独立大名』
つまり、それは『豊臣政権の一大名』
兼続も小早川隆景と同じ考えだったのでしょう。
それよりも
上杉家の築いた越後を離れなければなりません。
景勝と兼続はどのような心境だったのでしょう?
しかし
二人は耐えるしかなかったのです。
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直江兼続のこと大変勉強になりました。
丁度、大河ドラマが御館の乱、来週から違った角度で楽しめそうです。