十年位前に
私は直江兼続公が眠る
米沢市の林泉寺を訪れた事があります。
その時
私とは別に一組のカップルが訪れてまして
一緒に
住職の奥様に話を聞いたのでした。
彼らは・・・と言っても
主に興味を持っていたのが彼氏でありまして
彼女はもっぱら付き添いで
仕方なく来たという感じでした。
彼氏は
兼続よりも
『傾奇者・前田慶次』に興味を持ち
訪れたという事でした。
隆慶一郎氏の
『一夢庵風流記』や『花の慶次』に影響を受けたとの事でした。
慶次の墓か記念碑などがあったかどうかは覚えてません。
『今、二人はどうなっているのだろう?』
なんてことは
どうでもよく(笑)
この豪傑・前田慶次も兼続に魅了されたと言われています。
確かに、小説や漫画の影響もあります。
慶次が兼続に
『心底惚れた!!』
などと騒いだかどうかは解りませんが
兼続の与力として知遇を受けているようです。
私は兼続の菩提寺であることを知っていたので
兼続夫妻の墓やいろんな話を聞けたのは
嬉しかった記憶があります。
当時
『The Bigman(ザ・ビッグマン)』や
『歴史Eye』という月刊誌がありました。
その雑誌の記事の中で
兼続の特集を読み
彼の存在を知ったのでした。
そして
その彼が
戦国史上最大ともいえる
大事件のきっかけを創るのでありました。
それは上杉家の為だったのでしょうか?
亡き太閤秀吉の恩に報いたのでしょうか?
石田三成との友情に義理立てしたのでしょうか?
あるいは
『己の可能性を試してみたい。』
そんな気持ちがあったのでしょうか?
徳川家康が上杉景勝に上洛を促します。
上杉家の
『会津での活動に対する弁明をしろ』
という感じでしょうか。
『上杉家の会津での活動』
これを家康に報告したのが
越後の領主である堀家でありました。
『堀直政』
彼は秀吉にも一目置かれた武将であり
『天下の仕置きが出来る者』として
小早川隆景、直江兼続と共に評価した一人でありました。
彼は織田信長の許で活躍した
名将・堀秀政の家老でありました。
『堀秀政』
⇒彼は何をやっても見事にやり遂げる事から
『名人』という異名を付けられたほどの人物でした。
直政ではなく秀政を秀吉は評価したのではないかとも想えます。
その秀政の話は後日と致しまして
信長無き後
彼は秀吉の家臣となり活躍しますが
小田原征伐で急死します。
享年三十八歳。
その後を継いだのが
息子の秀治でした。
直政は
その秀治を支えていきました。
この堀家が
秀吉の命により
国替えをされました。
それが越後だったのです。
『上杉家の越後』
この時
スムーズに事は進みません。
上杉家との確執が生じます。
『上杉家は年貢米を一年分持って行きました〜』
暗黙の了解として
国替えの時は
半年分を置いていくという常識があったようです。
それを上杉家
いや
直江兼続は無視したのでした。
その為、堀家には年貢米を徴収出来なくて
大変苦労したといいます。
そんな恨みが残っていました。
それ故
『ここぞ!!』とばかりに
家康にチクッたのでしょう。
家康は再三
上杉家に上洛を促します。
しかし
景勝と兼続は応じません。
そこで
『直江状』
⇒簡単に言うと『来るなら来い!!』という内容の書状でしょう。
徳川家康に書状を突きつけます。
家康は
『こんな無礼な書状初めてだ!!』
と怒り心頭です。
兼続の挑発に乗ります。
ただ
家康はタヌキであります。
わざと挑発に乗ったのかもしれません。
間もなく
徳川家康は
『上杉討伐』を号令します。
秀吉にとって
天下を任せたいと想った漢
と
天下を渡したくない漢
が
天下の舞台で
歴史を演じていくのです。
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私も林泉寺には前に行ったことがありますが
前田慶次との関係はわかりませんでした。
何かあるのでしょうか?
秋に米沢に行く予定にしていますので調べてきたいと思います。