父・家康の正妻である築山殿(つきやまどの)の
奥女中であったといわれています。
これが事実ならば
今川家の名門出身である正妻の築山殿の
心中が想像出来ます。
当然、家康も想像出来たようです。
重臣の『鬼作左(おにさくざ)』こと本田重次に
秀康の母を預けました。
重次に匿われながら
何とか無事に
後の結城秀康こと
於義丸(おぎまる)は誕生したのでした。
ここでお詫びいたします。
私は間違えました。
第一回において
『浜松城において誕生した』
と書いたのですが訂正します。
『浜松城下』というのが正確なようです。
つまり家康の子でありながら
城中で誕生する事は出来なかったのです。
彼くらいではないのでしょうか?
家康の子で
『匿われながら誕生した子』
兄・信康は
弟・於義丸の存在を知っていたのでしょう。
そして
彼も父同様
母のプライドの高い性格を承知していたと想います。
信康は
なかなか出来た人物だったらしく
人望も厚かったそうです。
信康は母に対しても
意見をしっかりと言えた若武者だったように想像できます。
何かと於義丸母子をかばったかもしれませんね。
於義丸が
三歳になった頃に
この優しい兄・信康の取り成しにより
父・家康との対面を果たします。
信康、信康と私は言いますが
『松平信康』
又は
『徳川信康』
『徳川信康』を名乗る事は無かったようです。
『徳川』を名乗る前に
彼は此の世の人ではありませんでした。
その発端は
彼の妻にあったと言われています。
彼の妻は家康の同盟者・織田信長の娘である徳姫(とくひめ)
この徳姫と母・築山殿の不仲が不幸の始まりでした。
そして結果的に
『武田勝頼との内通』疑惑を信長に持たれてしまいました。
信長は非情でした。
家康に対して
『信康を切腹させよ!』と命じます。
天正七年(一五七九)兄・信康は此の世を去ります。
享年二十一歳。
『若すぎる無念の死』
家康は
悲しくて悔しかったことでしょう。
信長は
この優秀な若者の才能を怖れていたと
想わせるような出来事のようにも感じます。
信康が生きていたら
徳川は
どのようになったでしょうね。
於義丸五歳の時の出来事であり
『本能寺の変』の三年前の事でした。
秀康は成長した頃に
信康の事を当然、聞いたことでしょう。
信康に対する想いは
どのようなものだったのだろう?
そして
この出来事は
彼の波乱の人生の序章だったのかもしれません。
http://ping.blogmura.com/xmlrpc/hcrfyctda59o









































信康の死がでてきて、ますますこの先楽しみです。このことが秀康の人生にどうかかわるのかこの先楽しみです。