『小牧長久手の戦い』が終わった後
徳川家康の次男
『於義丸(おぎまる)』
彼はこの頃
十歳くらいでしょうか?
『養子』という名の『人質』
どのような想いで大坂へ赴いたのでしょう
秀吉は
於義丸を
家康から
預かりました。
『二人の政争の道具』
どんな想いを抱いていたのでしょうか?
覚悟は出来ていたのでしょうか?
『覚悟』
幼い於義丸にどのような覚悟が持てたでありましょう。
自分が大坂にどのような立場で赴いたかは認識していたのでしょうか?
確かに
いつの世も
どこの国でも
『人質』という政略はありました。
古代中国においては
『秦の始皇帝』
彼の父親も人質として他国で過ごしてました。
日本の戦国時代も例外ではなく
『人質政策』が政略の一つでした。
於義丸少年は壮大な大坂城を
どのような想いで観ていたのでしょうか?
彼は
秀吉の許で武芸の道に励んだことでしょう。
そして
元服も秀吉により執り行なわれました。
『羽柴秀康(はしばひでやす)』
於義丸は『羽柴秀康』と名乗りました。
秀吉の『秀』
家康の『康』
この時
彼は秀吉と家康
『天下人二人』を
父に持った漢(おとこ)として
歴史は彼を表舞台に出しました。
さて
この秀康
初陣を
天正十五年(一五八七)
『九州征伐』において飾ります。
彼は豊前や日向の国における戦いにおいて
功を挙げたといわれています。
まだ十代前半の少年です。
更に
天正十八年(一五九〇)
『小田原征伐』
天正二十年(一五九二)
『朝鮮出兵』
と参加したと言われています。
前線には出ていないのかもしれませんが
戦の手法を覚えていったと同時に
武将としての器量を磨いていったのです。
それ故に
『小田原征伐』の後に
そんな彼に目を付けた関東の名門武将がいました。
秀康に新たな運命が待ち受けております。
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いつも楽しく読ませていただいています。
秀康に目をつけた関東の名門武将とは誰のことなのでしょう?次回が楽しみです。