徳川家康の次男として誕生し
その後
豊臣秀吉の養子となり
そして
天正十八年(一五九〇)
関東の名族
結城家の養子となりました。
『養子』
当時としては珍しくない
この『養子』という制度
戦国の世を生き抜くためには
必要な制度だったことでしょう。
いや
戦国だけでなく
昭和の世まで
御家を存続する為に必要だったようです。
ちなみに
昭和の大政治家・吉田茂も養子です。
大河ドラマ『天地人』に登場しました
『上杉景虎(かげとら)』
彼は名将・北条氏康(うじやす)の七男として誕生しました。
彼も人質として
武田家、上杉家と赴きました。
武田家と今川家との
『三国同盟』が成立すると
武田家に人質として入り
武田家との同盟が破れると
北条家に戻り
大叔父・北条幻庵(げんあん)の養子となりました。
北条家の一族として生きていく予定だったはずです。
『北条幻庵』
⇒北条家の祖・北条早雲の三男です。
彼は北条五代に仕え
享年九十七歳で此の世を去ったと言われています。
しかし
彼の運命も
波乱万丈でした。
その後
北条氏康が上杉謙信と同盟を結ぶと
上杉家に人質に出されます。
そこで
謙信が人質ではなく
養子として
自分の名乗っていた景虎を与えました。
その謙信の厚意には感謝したことでしょう。
しかし
謙信死後の運命は皆様御存知ですよね。
秀吉も
そういう例から学んだのかもしれません。
『人質の心を掴む』
秀康は
『天下の豊臣家に人質』という意識は
あまり無く
養子として
秀吉の許でノビノビ暮らしたように想います。
また
天下の政治を目の当たりにしたのでしょう。
秀康の人生において
豊臣家での生活は貴重なものだったと想います。
石田三成とも仲が良かったという説もあります。
また
関東の名族とはいえ
結城家は
戦国の世においては小大名。
不満を持っていたでしょうか?
ただ
小大名といっても
石高は十万石ですから
十六歳の秀康には
破格といってもいいと想うのですけど
その心情は如何なるものだったのでしょう。
秀康は結城家において
どのような生活をしたのでしょう。
また
どのような統治をしたのでしょう。
徳川家と隣接する地に領地を持つ
結城家
徳川の影響も大きかった事でしょう。
養父の晴朝は隠居していたようですけど
秀康との関係はどんな感じだったのでしょう。
晴朝(はるとも)は御家の為に
秀吉の養子であり
家康の実子である
秀康に結城家を託したのですから
秀康を大切に想った事でしょう。
温かく見守っていたのだと想います。
この結城家でも
ノビノビと育てられたのではないでしょうか。
そんな環境において育てられたおかげで
後の豪快磊落な武将になったように感じます。
彼は秀吉の養子になった時に
『羽柴姓』を与えられていました。
更に
『左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)』
を与えられていましたので
『結城少将』と呼ばれていました。
秀吉は
秀康を厚遇したようです。
家康の子ですから
当然
気も使った事でしょう。
後に
秀康は
『実父・家康よりも養父・秀吉に恩義を感じていた』
なんて説もあるようです。
その秀吉が
慶長三年(一五九八)此の世を去ります。
秀康は
この偉大な養父の死をどのように受け止めたのでしょう。
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養子縁組は家を守るための手段としてとはわかっていますが、ドロドロしたものを感じらずにはいられません。
今回、秀康公は主家から入ってきたのですから、さぞ大事にされたと思います。
それにしても秀吉公の養子縁組を利用した、政略はたいしたものだと思いました。
結城酒造の「古拙」がそれです。ご存じでありましょうが、念のため。中村錦之助時代の東映映画で、信康フアンになった者です。
ありがとうございます。
最近は仕事が忙しくて
なかなかブログの更新も出来ないでいます。
未熟なブログですが宜しくお願いします。