2008年05月11日

鬼の佐竹 義重と義宣(第三回)













佐竹氏は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の子孫であるが、

その義光の子孫として有名な武将がもう一人いた。

その武将は大河ドラマの主人公に取り上げられたりして、

恐らく、佐竹氏よりも有名であろう。

甲斐源氏を名乗る武田家である。

同時代を生きた武田信玄が甲斐源氏に当たる。

その先祖は義光の次男か三男に当たる源義清(みなもとのよしきよ)

であり、血筋としては佐竹氏の常陸源氏が嫡流になるだろうか。

そんな関係から、佐竹義重は武田信玄とも書簡を交わしている。

特に同盟を結ぶなどの動きはなかったようだが、

社交辞令のような書簡を交わしたのだろうか。

あるいは後の事を考えて、対北条対策や上野への進出の布石として

信玄が懇意にしておこうとしたのかもしれない。

さて佐竹義重であるが

南に北条、北に伊達と強敵と対抗していかなければならなかった。

義重は内政の充実と戦力の充実に取り組んでいく。

そして、そんな時に先ず動いてきたのが伊達政宗であった。

奥州に勢力を拡大していこうとしていた。

その動きを危険視した義重は

『伊達の若造を一度は叩いておこう』と想ったに違いない。

しかし、この若造のいる伊達家とは親戚に当たるのである。

義重の正室は政宗の祖父である伊達晴宗の娘であった。

もちろん、佐竹家と伊達家の思惑による

政略結婚であったに違いないが、それでも成り行きとはいえ、

戦わなければならなかったのである。

両者は世に言う『人取橋の戦い』で顔を合わせることとなった。

二本松氏の救援の為に蘆名、佐竹、相馬などの総勢三万の軍勢を揃え

それに対して伊達は一万三千の軍勢で戦った戦である。

兵力の少ない伊達の軍勢に対して、

兵力で優勢な佐竹軍属する連合軍が優位に戦を進めていた。

しかし、同盟関係にあった江戸氏や安房の里見氏が

佐竹の領内に攻めこもうとする動きがあった為、

止むなく撤退したという。

これは政宗の計略だったかもしれない。

この佐竹氏の動きが原因で様子が一変する。

この戦は政宗が当初の劣勢を跳ね返して伊達軍が勝利するのである。

後世、佐竹氏の撤退が原因で負けた戦と評価されている。

また、伊達政宗の勇名を一躍世に知らしめた戦でもあった。

猛将・佐竹義重『鬼義重』が

政宗に『してやられた戦』だったかもしれない。

この後に何回か政宗と戦うが優勢であっても勝つ事は出来なかった。

そして、伊達政宗が摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて

蘆名氏を滅ぼすのである。

蘆名氏に養子に出していた次男の義広は佐竹氏に戻って来た。

この伊達家の勝利により今まで佐竹寄りだった

南奥州の勢力は伊達家になびいて行った。

義重は南は北条、北からは勢力拡大を果たした伊達に

挟まれる形になった。

義重は危機を感じたであろう。

時期は判らないが、北条と伊達が佐竹に対抗する為に

同盟していたのである。

そして、佐竹義重は何を想っていたのだろうか。

この時期に、息子の義宣(よしのぶ)に家督を譲るのである。

しかし実権は義重が握るという

父の義昭を真似た体制を取るのである。

家督を継いだ十九代目の佐竹義宣が

最初に行った大きな仕事がかねてから懇意にしていた

豊臣秀吉に『伊達政宗が蘆名氏を滅ぼした件』を訴えたのである。

佐竹氏が中央政権に歴史を刻む瞬間であったと同時に

秀吉に臣従した瞬間でもあった。


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posted by よしの at 21:59| 千葉 ????| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
佐竹氏、あまり知らなかったけれど、確かに興味深いです。
伊達政宗との遣り取り、正に丁々発止。
Posted by 桃源児 at 2008年05月12日 18:19
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