2008年05月14日

鬼の佐竹 義重と義宣(最終回)













『関ヶ原の戦い』その戦は戦国時代の事実上の

天下人決定戦であった。

この戦いは岐阜県の関ヶ原で行われた戦であったが、

関ヶ原の他の地でも戦が行われていた。

奥州の地、九州の地でも戦が行われていた。

そして大名それぞれの野望や思惑を

胸に秘めて戦う大博打であったのだ。

関ヶ原の戦いに先立ち、

家康は佐竹義宣(さたけよしのぶ)に人質を要求してきたと言う。

それだけ、義宣を警戒したのであった。

義宣がそれに応じたかどうかは定かではない。

義宣は密かに上杉景勝と呼応していた。

しかし、上杉討伐に兵を動かした徳川家康からも

出陣の要請が来ていた。

そして、石田三成が兵を挙げる。

この時、佐竹の家中でも

当然どちらに味方するかで揺れていた事だろう。

こんな時に、義宣に実権を譲って隠居していた

父の義重が『この度の合戦では必ず家康が勝利を収める』と予測し、

義宣に東軍に味方するように強く説得している。

このあたりの世の中の状況を見る目は

老いて益々鋭くなっているような感じであった。

義宣自身も恐らく両者の力量を比較しても家康が勝利を収め、

天下を獲ると想っていたに違いない。

義宣は三成との義理に縛られて旗色を鮮明にする事が出来なかった。

西軍が負けた時に訪れる佐竹家の悲劇と

恩義のある三成に弓を引くことが出来ないという

二つの想いがあった。

佐竹義宣という武将は本当に心から真面目な性格だったのだろう。

義宣は悩みに悩み、悩みぬいた末の決断として

上田城を攻めた徳川秀忠に

叔父の義久が率いる軍勢三百の援軍を送った。

そして結局、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わった。

義宣は東軍が岐阜城を落とすと戦勝祝いに使者を送った。

戦勝祝いの使者を送ってきたことも

家康には中立の態度にしか想えなかっただろう。

そして、その中立さえ許さなかった。

家康はその義宣の苦渋の決断と曖昧な態度を許さなかった。

出羽・秋田二十万石へ転封を命じた。

慶長七年(一六〇二)の事だったのである。

息子の優柔不断が仇となって、義重が生涯をかけた

先祖からの念願、常陸統一という大事業が水の泡となってしまった。

義重は就寝時、敷布団を敷かずに薄い布を引いて寝ていたらしい。

秋田に転封された後に義宣から敷布団を送られて使ったが、

結局気に入らず、敷布団を使わなかった。

ただ単に敷布団が気に入らなかったのか、

義宣に対する怒りが残っていたのか定かではない。

そして、秋田の地では反佐竹の一揆が相次いだ。

義宣と共に何とか一揆を抑える事の苦労していた。

のんびりと隠居どころではなくなってしまった。

そしてある時、義重は狩りに出た。

その時、落馬してしまった。

その落馬が元で此の世を去ったのである。

享年六十六歳であった。

頼朝と同じ死因であり常陸源氏らしい死に方だったかもしれない。

後世、『鬼義重』こと佐竹義重の肖像画は残っていない。

これは何を意味するのだろうか。

常陸源氏として常陸の地から離れざる負えなかった

先祖への申し訳なさから『常陸源氏の滅亡』を意味して

自ら肖像画を無くしたのかもしれない。

判りづらい表現かもしれないが、

常陸の地にいない佐竹氏は常陸源氏に非ずという

気持ちだったのではないだろうか。

また、息子の義宣は新天地で内政を重視した政策を行っていく。

関東や奥州の旧大名家の家臣達を積極的に登用し、

農地の開墾政策を積極的に進め、佐竹家の財政を安定させた。

江戸時代中期には石高二十万石が

実質的には四十五万石にもなったという。

義宣は自分に反発する家臣を粛清したりしている。

そして、大坂の陣では鮮明に徳川方として参陣した。

木村重成や後藤又兵衛などに苦戦しながらも奮戦する。

徳川家康は佐竹義宣を『困った程の律儀者』と評し、

その義理堅さに好感を持ったという。

そして、二代将軍である徳川秀忠からも重用されたという。

大坂の陣で豊臣家が滅亡し、時は流れ、雪深い奥州の地で

能楽や茶の湯を楽しみながら静かな日々を送っていた。

茶の湯では古田織部とも親交があったという。

そんなゆっくりとした日々を送るのは

人生の中で初めての経験だったかもしれない。

しかし、どんな心境だったのだろうか。

秋田の地で過ごす日々をどのような心境で過ごしたのだろうか。

寛永十二年(一六三五)、右京大夫佐竹義宣は

江戸神田屋敷で此の世を去る。享年六十五歳の波乱の生涯を閉じた。

一説には享年六十三歳とも六十九歳とも言われている。

徳川将軍家は三代将軍・家光の時代であった。

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posted by よしの at 22:36| 千葉 ????| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
家を保つことには成功したものの、先祖伝来の地からは引き離されることになった。
これも悲劇ですね。
敷布団や肖像画のエピソード、理解出来ます。
古くから続く名家らしいですね。先祖に申し訳が立たないというのは。
興味深いお話でした。ありがとうございました。
Posted by 桃源児 at 2008年05月14日 23:22
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