2008年05月15日

陰の英雄 明石元二郎(第一回)





『ロシア革命煽動は、奉天大会戦及び日本海海戦の大勝利と

共に日露戦争勝利の三本柱である』と絶賛された。

その偉業を達成した当時の陸軍参謀本部が

謀略を専門として欧州に放った将校こそ明石元二郎その人であった。

司馬遼太郎氏の代表作の一つでもある

『坂の上の雲』にも登場している人物の一人である。

明石は元治元年(一八六四)福岡藩士の次男坊として誕生した。

元二郎が二歳の時に、父が自害して果てたといわれている。

理由は何であったのだろうか。

その為、元二郎は親類の元に身を寄せ陸軍士官学校の入学を目指す。

『士官学校へ入れば、学費はむろんのこと

生活費の一切は国家が負担してくれる。』

そんな理由から多くの貧しい士族の子弟の多くが入学してきた。

その中の一人に秋山好古もいたのである。

しかし、明石は軍人向きの人間でなかったともいわれている。

確かに成績は優秀でフランス語は在学中、常に主席であった。

また、漢学や数学も良く出来た。

その反面、体育や美術がまるで駄目であった。

運動神経や美的センスは全く評価されなかったという。

そのうえ、いつもだらしない格好で、

サーベルの鞘などは錆びていたという。

当時の士官学校はまだ、おおらかな校風であったのだろう。

彼のような人間を入学させたものである。

これも運命なのであろうか。

彼が入学していなかったら、後の運命も変わっていただろう。

日露戦争後には厳しく整備された陸軍士官学校

あるいは後の陸軍大学校に彼が学んだとしたら

卒業どころか入学も出来なかっただろう。

そんな明石元二郎が少尉に任官し、

陸軍大学校に入学したのが明治二十年(一八八七)であった。

ちゃんと卒業できるのか不安だったかもしれない。

しかし、その後、一念発起して頑張ったのだろう。

難なく二年後に陸軍大学校を卒業し、参謀本部第一局に配属される。

さらに留学の為に、ドイツに派遣されるのである。

その地でみっちりとドイツ語の勉強をしたのであろう。

本当に語学力が素晴らしかったようだ。

明治三十四年(一九〇一)にフランス公使館付陸軍武官となる。

そこでも得意のフランス語を駆使して、いろいろな事を吸収し、

いろいろな情報を掴んだに違いない。

さらに明治三十五年(一九〇三)にロシア公使館付陸軍武官となる。

当時のロシアの首都ペテルブルクに向かった明石は、

その類稀な語学を更に駆使して活躍するのである。

この頃、明石元二郎、

ロシア語習得を頑張りながら四十歳を迎えるのである。

そして、ロシア語も身に付けるのである。

スパイとしてはこの能力は本当に優れた能力であった。

あるパーティの席で、ドイツの士官とロシアの士官がいて、

ドイツの士官が明石にフランス語で

『貴官はドイツ語が出来ますか』と聞いてきた。

明石は『フランス語がやっとです』と

わざとたどたどしいフランス語で応対する。

すると、そのドイツの士官は明石を無視して、

ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。

明石が、その重要な機密をしっかりと聞いたことは言うまでもない。

明石はフランス語、ロシア語、英語を完璧にマスターしたらしい。

『明石元二郎の語学習得術』なんて題名で

本を出して欲しいくらいである。

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posted by よしの at 22:42| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
語学の達人である彼にしか出来ないスパイ術ですね。
かなり頭の回転が速そうな印象です。
Posted by 夢子 at 2008年05月16日 01:01
語学好きな筆者にも、羨ましい能力をお持ちだったようですね。明石様。
しかも、40歳を越えてロシア語マスターとは。今のようにCD等で繰り返し聞いて覚えるなどということが出来ない時代に、信じられない。正に天才でしょうね。
Posted by 桃源児 at 2008年05月16日 22:43
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