明石元二郎の運動は、いや謀略は
フィンランド憲法党の党首に手紙を届けた事からはじまった。
しかし、反応はパッとしなかった。
しかし、資金を提供してくれる明石の噂は広まり、
ロシアの打倒を目指す人々が集まってきた。
明石の謀略網はポーランド兵士やスウェーデンの陸軍
そしてロシアの体制内にまで広がっていった。
その活動は西へ東へ北へ南へと活動を続けた。
そんな時に出会った男こそレーニンであった。
明石とレーニンが付き合っていくうちに
良き友人となっていったのであろう。
ある時、明石はレーニンのジュネーブにある自宅で
レーニンと会談し、
レーニンの社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。
しかしレーニンは、
『これは祖国を裏切る行為である』といって拒否した。
明石は『タタール人の君がタタールを支配している
ロシア人のロマノフ王朝を倒すのに日本の力を借りたからといって、
どうして裏切りになるのだ。
目的を達成する為に手段を選ぶべきではない。』
といってレーニンを説き伏せた。
そして、レーニンはロシアに向かった。
もし、この出来事がなければ歴史は変わっていただろう。
そして、他の組織にも援助をして行く。
日増しに強くなるロシア国内の反政府運動の火に油を注ぎ、
ロシアの戦意を国内から挫折させようとした。
明石の行った工作は、
例えば、内務大臣プレーヴェの暗殺や血の日曜日事件、
戦艦ポチョムキン号の叛乱等を裏で工作する。
これらの明石の工作が、ロシア革命の成功へと繋がっていく。
後にレーニンは『日本の明石には本当に感謝している。
感謝状を出したいほどである。』と述べている。
明治三十七年(一九〇四)、パリにおいて
各国の不平党の連合会議が開催された。
この会議はロシアの皇帝体制に戦いを挑むことを決める。
パリの会議以降、ロシア国内では革命運動が盛んになっていった。
さて明石が盛んに謀略を展開している時、
極東の地では旅順要塞に対する日本軍の攻撃が始まろうとしていた。
そして苦戦の末、旅順要塞を攻略する。
さらに日本陸軍の総力を注ぎ、奉天の大会戦にも勝利した。
しかし、まだ余力を充分に持っているロシアは
降伏する意思が全くなく、さらに日本との戦を続行する気でいた。
それを証明するかのように大きな敵が動いていた。
日本に向けて、大きな敵が現れようとしていた。
バルチック艦隊であった。
当然、明石はこの動きに注目していたに違いない。
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日本人だったとは驚きです。
「明石元ニ郎」の名前はあまり知られてませんが、
すごいことをした人だったんですね。